トルコはフィンランド、ハンガリーと並び、世界一の親日国だといわれている。トルコでは毎日日本関連の報道があり、「世界でいちばん好きな国はどこか?」という世論調査では日本が必ず1位に選ばれるほどである。
このトルコ人の親日感情は、1890年のトルコ軍艦エルトゥールル号の乗員に対する串本町民の懸命な救助活動に対する感謝、トルコ人と日本人が中央アジアから東西に分かれて移住していった同じアジア系であるという同族意識、トルコの宿敵ロシアとの日露戦争での日本の勝利、敗戦国日本が世界の経済大国へ成長したことへの尊敬等が主な理由だといわれている。1980年のイラン・イラク戦争のときに、イランから脱出できずにいた日本人のために救援機を飛ばしてくれたのもトルコだ。明治維新に倣い国内改革を断行した、トルコ共和国建国の父である初代大統領ケマル・アタテュルクが、明治天皇を崇拝し、陛下のポートレートを書斎の机に飾っていたという有名な逸話もある。
両国友好の歴史の始まりは、1890年のトルコ軍艦エルトゥールル号の遭難事件である。オスマン帝国皇帝が小松宮殿下のトルコご訪問の答礼として、オスマン提督らをエルトゥールル号で派遣した。明治天皇との謁見などの任務を果たし、その帰途で台風に遭遇し、和歌山県串本町樫野崎沖で座礁した。串本の漁民は献身的な救助活動を行い、約600名の死者を出した大惨事だったが、生存者69名はトルコへ日本軍艦によって送り届けられた。トルコでは今でもそのことが語り継がれている。
日本とトルコの国交樹立は1924年のことである。トルコの地政学的優位性と日本の経済発展の願いから、日本・トルコ協会の前身である日土協會を設立し、両国の関係強化の礎をつくった。その後の両国関係については、同協会の歴史と見事にオーバーラップする。そこで、協会の歴史をたどりながら、両国の足跡を見ることにする。
日本・トルコ協会は、1926(大正15)年6月設立の「日土協會」を前身とする任意団体である。トルコ共和国の建国が1923年であり、極めて早い時期に設立されたといえる。
発起人の1人で初代駐トルコ特命全権大使の内田定槌初代会長は、トルコ駐在中にトルコ人の親日ぶりとトルコの持つ地政学的重要性と必要性を痛感し、帰国後に協会の発足を呼びかけた。発足当時の名誉会長はフルスィ・フアド臨時代理大使、その後、1929年には高松宮殿下を名誉総裁としてお迎えした。協会は、トルコの文化・経済両面の展示会の開催、辞書を含む各種書籍の出版などさまざまな事業を通し、官民双方に向けて積極的にトルコ情報を発信し、経済関係の促進に貢献した。
第二次世界大戦が勃発し、トルコと日本は一時的に断交した。その間、協会は「土耳古協会」と改称し、調査研究機関として活動した。終戦後、サンフランシスコ条約発効に伴い国交が回復し、日土協会も再開した。両国間の交流は、1958年にメンデルス首相など要人が相次いで来日し、急発展する。しかし、当時は人的・物的資源もそろわず、存続するだけで精一杯だった。
やがて、第1ボスポラス大橋の国際入札を契機に持ち上がったトルコへの関心の高まりから、1970年の経済団体連合会のトルコ・ミッションがきっかけとなり、両国の本格的な経済関係の促進に対する文化・人的交流の必要性から、2国間の友好交流団体として、大屋晋三氏(帝人(株))を会長とし、「日本・トルコ協会」が誕生した。大屋氏の後を田口連三氏(石川島播磨重工業(株))が継承し、1990年には米倉功氏(伊藤忠商事(株))が会長に就任した。なお、1991年には三笠宮殿下に名誉総裁へご就任いただくという栄を賜った。また、トルコ政府より授与された三笠宮殿下への「アタテュルク国際平和賞(1986年)」、米倉功氏への「功労賞(1999年)」は、両国の友好関係の証しであると思われる。
さて、現在は通常事業として、会報誌「アナトリアニュース」発行(年間3回)、トルコ語講座、「トルコの夕べ」(講演会と懇親会)、トルコ料理教室、経済セミナー、トルコ・ツアー等を行っている。そのほかに、アダパザル・エンカ学校(震災孤児のために設立された私立学校)への支援活動(書籍寄贈、親善訪問他)、トルコ人留学生との交流、トルコ関連催事に対する協力など、適宜ニーズに応じている。
なお、1990年には日土修好100周年記念事業としてシンポジウム開催及び「トルコ軍艦エルトゥールル号の遭難」の発行を、協会創立70周年に当たる1996年には協会70年史の発行と「トルコ語スピーチコンテスト」及び「70周年記念シンポジウム」の開催を、1999年には中東調査会との共催でトルコ大地震チャリティー・シンポジウムの開催をそれぞれ行った。国内では、ジェトロ(日本貿易振興会)をはじめ政府の外郭団体や民間の(財)中近東文化センター、トルコ関係団体、中東各国の関係団体等との交流がある。地方自治体では、法人会員の串本町、下関市とは密接な関係にある。そのほかに、今年度は「日本におけるトルコ年」記念催事を横浜市の協力で開催する予定である。
現在は日本国内でのトルコ理解の促進のための活動が中心となっているが、トルコ各地の対日友好協会や大学ともこれまでに交流事業を行い、今日でも友好的な関係は続いており、今後はトルコ国内の団体との交流も発展させたいと考えている。ちなみに、デミレル首相(当時)が来日した折、当協会の存在に対して非常に感銘を受けた同氏が、トルコにも協会のカウンターパートをつくるよう命じて1997年に設立されたのが、アンカラにある土日基金センターである。2001年に当協会が企画したトルコ・ツアーでは同センターの「春の日本週間」に参加し、茶道や着物の着付けなどの日本文化紹介を参加者全員で行った。
トルコを訪れると、同じ1つの国とは思えぬような歴史の重層性と土地の多様性に驚かずにはいられない。西洋と東洋の十字路に位置するトルコでは、かつて多くの文明や民族の興亡があった。また、日本の約2倍ある国土の地形は実に変化に富んでいる。さらに、神話や聖地の宝庫であり、豊かなアナトリア(小アジア)の大地は、多くの植物の原産地でもある。
その上、トルコを訪れると、心の温かいトルコの人々が大歓迎してくれる。日本とトルコはシルクロードの東端と西端で離れているにもかかわらず、生活習慣などの随所に共通点が見出されることがあり、親近感を持つことができる。また、トルコ人にとってお客様をお迎えすることは大変名誉なことであり、misafirperverlikという言葉があるように、心からのおもてなしをしてくれる。その上、世界で最も親日的なのだから、つい人々の温かさに甘えてしまうし、居心地がとてもいい。また、トルコの人々の親密な家族関係や、決して豊かでなくとも、心にゆとりを感じさせるライフスタイルなどを目の当たりにすると、日本人が忘れてしまった大切なものに気付かされる。
トルコを訪れる人にリピーターが多いといわれるが、それはトルコの国土の豊かさと人々の素晴らしさが備わっており、訪れるたびに新しい発見があるからであろう。
国交樹立から現在まで、世界情勢の目まぐるしい変化が両国関係にも何らかの影響を及ぼしてきた。しかし、両国の関係はおおむね友好的であり、交流の分野は多岐にわたっている。
現在、5つの姉妹都市関係が結ばれている。また、40社以上の日本企業がトルコへ進出しており、例えば日土両国企業の合同で架けられたイスタンブールの第2ボスポラス大橋は、両国の友好のシンボリックな存在として人々に親しまれている。学術交流も盛んで、三笠宮殿下が名誉発掘隊長を務められるカマンカレホユック遺跡発掘調査等の調査や、トルコからの留学生も年々増加している。1999年8月にトルコのマルマラ地方を襲った大地震では、日本の緊急援助隊がいち早く現地入りし救助活動を行い、また、寄附や救援活動のボランティアが全国から集まるなど、日本とトルコ友好の1つのきっかけとなった。神戸市とイスタンブールでは、現在も防災技術の協力関係が続いているなど、同じ地震国同士、相互協力を通して両国間の関係の発展に寄与している。
ところで近年、活動を休止あるいは縮小する対外友好団体が増加している。グローバル化が進み、個人的な往来や、インターネットの普及による情報の入手が可能な時代となる中で、協会の持つ役割が変化しつつある。しかし、人的交流が交流の基礎であることは変わることはないし、その役割を担うことができる要の1つは対外友好団体であると思われる。
かつて朝鮮戦争でトルコは5万人の国連軍を派遣した。朝鮮への往復途中に、東京にけがの手当てや休息に立ち寄ったトルコ兵に対し、協会員たちがボランティアで世話をしたという。このように、一人ひとりの努力により、協会の両国の架け橋としての役割が存続してきた。串本の人々や国交樹立、協会設立に奔走したわが先人たち、第二次大戦後の会員たちの精神は今も脈々と受け継がれている。 |
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