日本とパラオ



南溟の侍〜ペリリュー島武闘伝〜
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第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった。コロールには南洋庁及び南洋庁西部支庁(パラオ支庁)が置かれ、パラオは周辺諸島における植民地統治の中核的な島となり、多くの日本人が移住しパラオ支庁管内の住民の4人に3人は日本人となった(軍人を除く昭和18年6月末時点の居住者33,960人の内訳:日本人25,026人、朝鮮半島出身者2,460人、パラオ人先住民6,474人、他にスペイン人・ドイツ人宣教師18人)。この為、日本人向け学校や病院・道路など各種インフラの整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへとその姿を変貌させていった。また、日本統治の開始にともない日本語による学校教育が先住民に対しても行われるようになった。ただし、日本人とパラオ人の教育は分けられてパラオ先住民は5年制の公学校で教育を受けた。なお、日本国籍はパラオ先住民には与えられなかった。

日本は1933年に国際連盟から脱退したが、統治委任はパリ講和会議によるものと主張して、そのまま委任統治を続けた。しかし委任統治領に軍事施設を建設してはならない規則は国際連盟による取り決めであるため、脱退後は各地に海軍の関連施設を建設した。

第二次世界大戦(太平洋戦争)が始まると、コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動してアメリカ軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで日米両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人に一人の死者も出なかったとされる。

戦争終結後の1947年、国際連合の委託を受けアメリカ合衆国はパラオを信託統治下においた。アメリカは莫大な額の援助を行い、また英語による学校教育を行うなどした。

自由主義史観研究会関係者は、「統治初頭にアメリカがパラオに浸透した日本の文化の排撃(神社や日本人と共同でつくったインフラ・畑等の破壊)や反日教育を行ったが全く浸透しなかった」と主張しており、実際現在も非常に親日的な上に、アメリカに次いで日本から莫大な援助を受けている。

第5代目パラオ大統領トミー・E・レメンゲサウ・ジュニアからのメッセージ
(第一次世界大戦後から第二次世界大戦)終戦までの日本は、数万人に及ぶ日本人入植者をパラオに送り込み南洋庁を作り、私たちパラオ人のために様々な教育や産業を伝えました。それは後に、パラオ独立のための貴重な原動力となりました。そして現在でもパラオの長老たちは日本のことを「内地」と呼び、世界で最も親日感情が高い国、といっても過言ではないのです。

アメリカの統治下では栄養状態は改善し、一人当たりの国民所得も大幅に上昇、パラオ住民は日本統治時代には望み得なかった高等教育を受けることが出来るようになった反面、経済はアメリカの援助に依存し、パラオ人は農業などの肉体労働に就くのを嫌がるようになりフィリピンからの出稼ぎ労働者が担うようになった。また高等教育を受けた若者はアメリカでの就職を希望する者が多く、パラオの人口動態は流動的なものとなって把握が難しくなっている。

1992年の住民投票で憲法内の非核条項を凍結することが決まり、1993年の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に独立し、同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。



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