共産主義



ソヴィエト野郎Aチーム
↑ココをクリック


共産主義(きょうさんしゅぎ、英Communism)とは、財産の共有を目指す思想。一般には生産手段の私的所有を社会的所有に変えることを理想とするマルクスとエンゲルスの思想を指す語として用いられる。この思想に基づく体制も共産主義と呼ばれる。ソ連や東欧の共産党政権下においては共産主義の低い段階を指す語として社会主義が使われていた。

共産主義の概念は古代に遡ればプラトンにも見られるが、歴史上、現在使われる文脈とほぼ同じ意味で“共産主義”という語を用いた最初の人物はフランソワ・ノエル・バブーフである。この語の由来はラテン語で共有を意味する“communis”であり、歴史的に最も早い使用例はシルヴィ父子によって書かれた『理性の書』(1706年)である。その後、フランスにおいて社会主義、共産主義が20世紀に使われたような文脈で初めて使用された。19世紀・フランスにおける共産主義思想をドイツに紹介した人物はローレンツ・フォン・シュタインであった。マルクスはシュタインの著作である『今日のフランスにおける社会主義と共産主義』(1842年)を読み、ここから自身の思想を展開することになる。

エンゲルスが1880年に発表した『空想から科学への社会主義の発展』は、社会主義・共産主義の歴史でとくに重要な思想家としてサン・シモン、フーリエ、オーウェンの三人を挙げている。

1848年に共産主義者同盟の綱領的文書として発表された『共産党宣言(共産主義者宣言)』において、マルクスとエンゲルスは、資本主義社会をブルジョアジーとプロレタリアートの階級対立によって特徴づけ、ブルジョア的所有を廃止するためのプロレタリアートによる権力奪取を共産主義者の目的とした。この革命によって階級対立の解消、国家権力の止揚へと向かい、各人の自由な発展が、万人の自由な発展の条件となるようなアソシアシオンを形成することが共産主義の目標であるとした。またこの中で、共産主義者はこれまでの一切の社会秩序が暴力的に転覆されることによってのみ自己の目的が達成される、と宣言した。

1873年に出版された『資本論』第二版には、「共同の生産手段で労働し自分たちのたくさんの個人的労働力を自分で意識して一つの社会的労働力として支出する自由な人々の結合体」についての言及がある。社会的分業の一環としての労働が私的な労働として行われる商品生産社会を乗り越えた社会についての記述であり、事実上の共産主義論と見なされている。また、直接言及した箇所には第一版の「共産主義社会では、機械は、ブルジョア社会とはまったく異なった躍動範囲をもつ」、第二版の 「共産主義社会は社会的再生産に支障が出ないようあらかじめきちんとした計算がなされるだろう。」がある。

1875年、マルクスは『ゴータ綱領批判』の中で共産主義社会を低い段階と高い段階に区別し、低い段階では「能力に応じて働き、労働に応じて受け取る」、高い段階では「能力に応じて働き、必要に応じて受け取る」という基準が実現するという見解を述べた。

エンゲルスは、1880年に出版された『空想から科学への社会主義の発展』において、生産手段の国有化によって計画生産を実施することをプロレタリア革命の課題とした。また、唯物史観と剰余価値説によって社会主義は科学となった、とし、自らの立場を科学的社会主義と称した。

1880年代から1890年代にかけてドイツ社会民主党が急速に勢力を拡大し、第二インターナショナルの中心的政党となった。マルクス主義者のカール・カウツキーが同党の中心的理論家として活躍し、マルクス主義の権威も高まった。マルクス主義はゲオルギー・プレハーノフによってロシアにも持ち込まれ、ロシア社会民主労働党のイデオロギーとなった。

1889年には社会主義者の国際組織として第二インターナショナルが設立され、ドイツ社会民主党が中心的な役割を果たした。しかし1914年に第一次世界大戦が始まると、加盟政党は国際主義的な戦争反対の主張を放棄してそれぞれ自国政府の戦争を支持し、第二インターナショナルは瓦解した。戦争反対を貫いたのはロシア社会民主労働党の分派であったボリシェヴィキをはじめとするごく少数だった。

ボリシェヴィキは1917年10月にロシアで武装蜂起を成功させ(十月革命)、権力を獲得した。1918年にドイツとブレスト=リトフスク条約を結んで第一次世界大戦から離脱し、土地の社会化や労働者統制などの政策を実施した。また、党名をロシア共産党に変更し、1919年にはコミンテルンを設立してヨーロッパの革命を支援した。

しかし革命とそれに続く内戦の過程で共産党以外の政治党派はすべて非合法化され、ソビエトに基づいた民主主義は形骸化した。1924年にレーニンが死ぬと共産党内部で権力闘争が激しくなり、スターリンが1930年代半ばまでに独裁的な権力を確立した。スターリンに対する個人崇拝も始まった。また、1930年代の大粛清によって数十万から数百万の人々が犠牲になった。

1920年代末から農業集団化と五カ年計画が始まり、共産党は政治だけでなく経済も完全に支配することになった。

1924年、ソ連でレーニンに代わって指導者となったスターリンは、マルクス、エンゲルスからレーニンへと受け継がれた思想をソ連の現実に合わせる形で修正した。

マルクスやレーニンにとっては、共産主義革命とは世界革命であった。後進国の革命は先進国の革命と結びつくことによってのみ共産主義へ到達できるものとされていた。しかしスターリンは、1924年に発表された「十月革命とロシア共産主義者の戦術」の中で、ソ連一国だけでも社会主義を実現することが可能だと主張した(一国社会主義論)。そして1936年の憲法制定時にソ連において社会主義が実現されたと宣言した。

1930年、強引に農業集団化を進めて農民の抵抗が激しくなると、共産主義が実現するにつれて国家権力は死滅へと向かう、というマルクス以来の国家死滅論を事実上否定し、共産主義へ向かえば向かうほどブルジョアジーの抵抗が激しくなるので国家権力を最大限に強化しなければならない、とした。

第二次世界大戦にあたっては、労働者は祖国を持たない、という『共産党宣言』以来の国際主義を放棄し、ロシア人の愛国心に訴えかけて戦争を遂行した。ナチス・ドイツに勝利した後の1945年5月、赤軍指揮官を集めた祝宴の中でスターリンは、「私は、なによりもまずロシア民族の健康のために乾杯する。それは、ロシアの民族が、ソヴィエト同盟を構成するすべての民族のなかで、もっともすぐれた民族であるからである」と演説した。

ソ連の現実があまりにもひどかったため、共産主義運動の内部からも反発が生まれた。

最初に大きな影響を及ぼしたのはソ連共産党の権力闘争に敗れたレフ・トロツキーを中心とする運動である。スターリンが1924年に一国社会主義論を提唱したことを世界革命の放棄として厳しく批判した。また、ファシストより社会民主主義者を主要な敵と見なすスターリン派の社会ファシズム論も批判し、社会民主主義者とともにファシストと闘うことを訴えた。ドイツでナチスが政権を獲得した後、もはやコミンテルンの再生は不可能と判断し、1938年に第四インターナショナルを創設した。

第二次世界大戦後の1948年にはユーゴスラビア共産党が非同盟運動を提唱してソ連・東欧諸国とは一線を画した。同時に独自の自主管理社会主義を打ち出し、ソ連型とは異なる分権的な経済システムの構築を始めた。

1956年にはソ連共産党第一書記のニキータ・フルシチョフがスターリン批判を行ってスターリンの権威を失墜させ、世界の共産党に大きな衝撃を与えた。それとともに同年、ハンガリー動乱においてソ連軍が民衆の蜂起を弾圧したことは、欧米や日本で新左翼または「ニューレフト」と呼ばれる潮流が生まれるきっかけとなった。

ソ連や東欧の共産党政権は、基本的人権や民主主義を軽視したために国民の支持を得られず、経済の発展において西側諸国をしのぐこともできなかった。その結果、東ヨーロッパの共産党政権は1989年に次々と崩壊し、ソ連も1991年に解体した。

中華人民共和国の共産党政権は、毛沢東が主導した大躍進政策や文化大革命によって人的、物的に多大な損失を経験した後、1970年代後半からケ小平の指導で改革開放を進め、社会主義市場経済を標榜している。これは一言で言えば資本主義と社会主義の混合経済であり、旧ソ連のネップや日本の高度経済成長のやり方を参考にしていると言えるだろう。「発達した資本主義経済が社会主義経済へ移行する」というマルクス主義の経済発展段階の学説に基づき、市場原理の導入によって経済を発展させ、それを基に社会主義社会を通して共産主義社会を目指すとしており、現在は資本主義社会から社会主義社会への過渡期であると政府は主張している。

北朝鮮はソ連・東欧の崩壊に伴う交易環境の悪化にもかかわらず体制を維持したが、深刻な飢餓によって数十万から数百万の死者を出した。冷戦終結後に最大の援助国ソ連を失ったキューバはその後も米国の経済封鎖が解かれていないため国内の経済は停滞しており、都市部での有機農法での食料増産や省エネルギー政策である程度の改善がみられるものの、最近増加傾向にある中南米の友好国からの経済援助無しでは立ちゆかない状態である。しかし、ソ連崩壊後は逆にアメリカ合衆国の一極集中支配に対する反発を生んだ。

冷戦期は共産主義に対する脅威から西側諸国は社会保障を充実する等労働者の権利を認めざるを得なかったが、冷戦の終結と東側陣営の崩壊で再び資本主義国の労働者が過酷な境遇に追い立てられていると言われている。それはアメリカや日本等新自由主義経済の国々で著しく、また、社会主義市場経済を標榜する中華人民共和国においても、民工などの過酷な実態が存在する。その為、逆に21世紀を迎えた今日こそ共産主義革命の好機だと共産主義者は主張する。インドやイタリアなどでは選挙によって民主的に共産主義の自治体が誕生する事例が相次いだ。これらの国々では嘗ての共産主義の認識にとらわれず、その国に合った独自の国作りを目指している。

1920年代から1930年代にかけて、合理的経済計算と効率的資源配分に関する社会主義経済の存立可能性に付いて社会主義経済計算論争が行われ、オスカル・ランゲがワルラスの一般均衡理論に基づく社会主義経済を構想し資本主義経済に対する優位性を主張した。ランゲの構想に着想を得て、東欧諸国では生産手段の公的所有に基づく市場経済の導入が行われたが、いずれも現存する資本主義国家の経済を上回る効果を生まなかった。

ルートヴィヒ・フォン・ミーゼスは、1927年に発表した『自由主義』で、貨幣が存在しないとすれば価格もうまくつけられないとして、計画経済を批判した。

フリードリヒ・ハイエクは、1944年に発表した「隷属への道」("The road to serfdom")で、社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムが同根の集産主義であると批判し、計画経済や社会主義・共産主義が必然的に『独裁制の全体主義』に陥ることを指摘した。また、共産主義による計画経済は、計算についてのすべての情報が集まらない以上、計算は不可能だとした。

小泉信三は、1949年に「共産主義批判の常識」を発表し、(1)マルクス経済学は、マルクスの主著「資本論」という名称から明らかなように、資本主義の分析・批判を行っているだけで、社会主義経済については何も言っていない。資本主義よりも社会主義の方が優れているという分析は全くなされていない。(2)資本論の叙述は、必要以上に迂曲と抽象を弄するきらいがあって、読者はその衒学的なる特殊な論法と術語に脅かされ、独り相撲的な解釈に陥りがちであるが、その言うところを冷静に煎じ詰めてみれば、結局、資本主義が進めば、雇われ得ない過剰の労働者と売れない過剰な商品が必ず生じ、その混乱が資本主義を滅ぼすと言っているにすぎない。(3)労働者過剰と商品過剰はマルクスが誇張するほどの問題ではなく、景気循環程度の話にすぎない。(4)労働価値説や搾取論は、労働者の不満を焚き付けるデマゴギーの一種であり、とても経済理論とは言えない。(5)社会主義ユートピア論は、聖書ヨハネ黙示録の千年王国信仰そのものであり、経済理論ではなく、宗教的信仰である。などの問題点を挙げ、「社会主義は体系化された嫉妬の情である」と指摘している。

フランシス・フクヤマは「歴史の終わり」の中で共産主義の問題点として以下のような点を上げている。(1) 働いても賃金が平等なため、労働者の競争心が低下し、労働意欲の減退を招いた。(2) リスク管理や市場調査という重要な役割をもつ資本家階級を、不当に過小評価した。(3) 株式会社が発達し、資本と経営が分離したため、資本家階級と労働者階級の違いが曖昧化した。(労働者でも株を買えば資本家になれた)(4) 中央指令型経済は、宇宙事業のような重厚長大産業では大きな威力を発揮したが、スピードが重視される情報産業やサービス産業では不合理だった。(5) 共産主義国家はほとんどが共産党一党独裁だったために、チェック・アンド・バランスが働かず、富が公平に分配されなかった。(6) 資本主義国家でも財政出動による雇用対策や福祉政策を行ったために、労働者階級全体が極端な貧困状態に陥ることはなかった。

1990年代になりソ連・東欧の失敗を踏まえて、ジョン・ローマーは現在の資本主義とほぼ同じだが、企業の株式は、国民に平等に配分されたクーポンによってだけ購入出来るというような経済システムをランゲの構想の延長線上として提起した。このローマーの経済モデルも現実の経済システムの様な活力を持ち得ないという批判が多くの自由主義者から起こっている。

また、科学哲学の側面から、哲学者のカール・ポパーは、マルクスの理論は反証可能性がないため、科学的ではないと批判している。



[Link] シール 野尻湖 不要品 東京 激安格安通販 ダイエット ニンテンドーDS ソフト サプリ 健康維持食品 ネクタイ ブランド 掃除機 水晶 医師 募集 厚木市 賃貸 人材派遣 家庭教師 オーバーチュア