|
特攻作戦とは、爆弾を抱えた軍用機や小形舟艇(震洋)、魚雷(回天)に搭乗員が乗り込んで直接操縦・誘導を行い、敵艦船等に体当たりさせる事でそれらの撃滅を狙う作戦である。他には潜水して棒の先につけた爆弾で上陸しようとする揚陸艦を攻撃する伏龍がある。 当然のことながら乗員はその生還を期さない。第二次大戦末期の日本で、陸海軍あげて大規模な計画的作戦として実施されたことで有名である。 兵力と兵器の減少のために、充分な抵抗をなしえなくなった日本の、力による最後の抵抗であった。大西瀧治郎中将は自ら「特攻は外道の統率」としながらも、祖国に迫る危機には抗えず、特攻の実施を命じた。提督は、特攻出撃する搭乗員たちに対して、「今の日本の危機を救えるのは、大臣でも軍令部総長でもなく、諸君たちしかいない。命を捨てて特攻に望む諸君らは最早、神である。諸君らの戦果は、必ず自分が陛下にお伝えする」と涙を流して訓示した。 若い搭乗員たちは、これからの祖国の未来や、残して逝く自分の大切な人の運命など、さまざまな想いを抱いて特攻機に乗り込み、出撃して行った。 彼らの精神は、出撃前に遺した遺書に綴られており、現代に生きる我々に、特攻隊員たちが如何なる想いで戦って、そして命を散らせていったのかを伝えている。
特別攻撃隊のうち、海軍航空機からなる特攻攻撃を、元寇を追い払ったといわれる「神風」の思想の影響からか、特に神風特別攻撃隊(しんぷうとくべつこうげきたい、俗に「かみかぜとくべつこうげきたい」とも)と呼称していた。そのため、連合軍は航空機による特攻をカミカゼといい、非常に恐れたといわれる。米国では、将兵が生還する確率が50%未満の作戦は実行しないという作戦習慣があったので、いかに祖国を守るためとはいえ、自らの命をも武器として体当たりしてくる特別攻撃隊に、心底恐怖したという。 米国内では、カミカゼの報道は規制され、のちに一括して報道された。しかしながら報道がルーズベルト大統領の死と重なったために、米国内での衝撃はほとんどなかったという。
陸軍の(航空)特別攻撃隊は海軍の「神風」のような統一した隊名を用いなかった。フィリピン戦線に投入された富嶽隊(浜松、重爆撃機)と万朶隊(鉾田、軽爆撃機)に始まり、その都度命名された。しかし、沖縄戦が始まり、回数が増えると、やがて「振武第○隊」のような命名が増えていった(丸には数字が入る)。 沖縄戦では知覧と都城を基点に作戦が遂行された。 陸軍の(航空)特別攻撃を指揮したのは、菅原道大であった。
目標艦艇に突入するためには、まず米軍の直掩(護衛戦闘機)隊の猛攻をかいくぐらなければならず、その次には目標艦艇とその僚艦による対空砲火の弾幕をくぐらなければならない。だからこそ大戦初期は当時最新鋭の機体に訓練を積んだパイロットを乗せ、対直掩機用の戦闘機を含む大部隊での雷爆撃を行っていたのである。それでも、無事雷爆撃を成功させるためには十分な訓練による技量が必要とされた。しかもこうした突入以前の難関は、米軍のVT信管実用化や優秀な新型戦闘機の投入などにより戦争後半にはさらに大きな壁となっていった。
当初、米軍の意表をついた特攻はそれなりの戦果をあげる事ができたものの、米軍は次第に特攻に対する体勢を整えたほか、日本軍もあまりにも飛行技量未熟な搭乗員や低速・低性能な機体(末期には機体不足のため敵戦闘機の半分以下の速度しかでない複葉練習機すら特攻作戦に投入された。ちなみにこの練習機による特攻は敵艦撃沈に成功するという戦果を上げている)まで投入したこともあり、突入前に撃墜されたり、無事突入に成功しても命中しない例や機体ごと装甲にはじき返される(機体強度と運動エネルギーが艦艇の装甲強度を上回れない)例も出てきた。このため日本軍の攻撃対象は、主力艦艇(正規空母や戦艦)から駆逐艦や護衛空母などの補助艦艇にシフトしていった。実際、沖縄戦で特攻機によって米軍が受けた被害は輸送船や駆逐艦に集中している(沈没26隻、損傷164隻)。
特攻の主力艦に対する戦果は、1945年(昭和20年)2月21日に海軍第二御盾隊が硫黄島沖において米正規空母サラトガに突入、これを大破させ同艦を終戦まで出撃不能としたものが、艦単位では最大の戦果とされる。
大日本帝国陸海軍以前にも、特攻というべき攻撃がなされたことはあったが、組織的な特攻としては大日本帝国陸海軍がはじめてであった。 海軍として最初の組織的な航空機特攻作戦は、大西瀧治郎海軍中将により提唱された。これは1944年10月の台湾沖航空戦の敗北の結果、組織的戦闘が不可能になっていた航空戦力活用のためである。この作戦は、その直後発令された捷一号作戦において敵空母部隊撃滅を目標に初めて実戦で行われることとなった。
レイテ沖海戦で編成された最初の特攻隊が、関行男大尉(戦死後中佐)を隊長とする「敷島隊」である。彼らは、初出撃では天候不良や会敵不能などから帰還せねばならなくなり、その後も二度諸障碍により基地に帰還している。関大尉は、帰還するたびに自らの指揮の不首尾を涙ながらに悔やんだ。そして次の四度目の出撃で、敷島隊はついに特攻作戦に成功した。関大尉は、米軍の護衛空母セントローに見事突入し戦死した。この敷島隊による特攻で護衛空母1隻の撃沈をはじめ注目しうる戦果をあげたため、特攻作戦はその後も遂行されることとなった。
大西瀧次郎提督はその後、特攻作戦を実施するもなお敗れた責任をとるために、軍令部次長官舎にて切腹し、特攻隊員たちの後を追った。提督は切腹の際、自分を介錯することは許さず、「自分が送り出した部下たちへの責任を取る」と言って、約20時間苦しみ続けて世を去った。
なお、国のために命を捧げた特攻兵士は英霊として靖国神社に例外なく祭られた。 しかし大西の場合は戦死ですらなく戦争が終わってからの自殺であり、大西が靖国神社に祭られることに違和感を指摘する声もある。
特攻作戦を指揮した将としては、他に宇垣纏中将と黒島亀人少将があげられる。そのうち、宇垣中将は、昭和20年8月15日に終戦の報に接し、「多数殉忠の将士の跡を追い、特攻の精神に生きんとするにおいて考慮の余地なし」として周囲の制止を振り切り、敵艦隊へ向け艦上爆撃機彗星 (爆撃機)ほか数機により沖縄に出撃、海岸線に突入自爆した。なお、戦争終了後も戦闘を続けることは死刑宣告を受けてもやむなしの重大な軍規違反であり、この死も戦死とは認められていない。
この宇垣中将の「特攻」に対しては、「宇垣中将は、戦争が終わった後にもかかわらず、なおも独りよがりの死を求め、部下を道連れに米軍に突入して自殺した。所詮は私兵特攻である」という批判がある。連合艦隊司令長官小沢治三郎は、「突入するなら一人でやれ」とその行為を激しく非難するほか、軍令部でも非難の対象とされた。
黒島少将は、特攻兵器を開発した軍令部第二部の部長であるが、戦後も生き続け、昭和40年(1965年)10月、肺癌で死去している。
軍用機を用いた特攻は、通常数機の特攻機と護衛の直掩機から編成された。直掩機は戦場まで特攻機を護衛し、戦場に到達した後は特攻機による攻撃を見届けた後帰還し、戦果の報告を行った。なお特別攻撃隊への参加者は本人の志願の上で司令部が選別する事とされたが、これはあくまでも形式的なものであり、不志願者が出た場合、上官から志願せざるを得ない状況に追い込まれ、半ば強制的に志願されられた隊員もいたとの話もある。また大戦末期には(『白菊特攻隊 還らざる若鷲たちへの鎮魂譜』:ISBN 4-7698-2363-0によると)、飛行隊そのものが「特攻隊」に編成替えされ、そこから志願者を募るという事もなされている。
特攻ではよく、生きて帰ってこれないことが多いために、片道の燃料しか積んでいないといわれるが、実際はレーダーを避けるための低空飛行と爆弾の積載のために満タンの燃料でも足りなかったこともあるくらいで、できるかぎり多くの燃料が積み込まれた。 また、特攻隊員たちが憂いなく出発できるようにと、出撃機には可能な限りの整備がなされた。
上記のような対水上艦艇における特攻のほかに敵航空機に対する特攻による迎撃も行われている。
大戦末期になってB-29による絨毯爆撃が開始されると、これに対する迎撃戦闘が行われるようになった。おもに本土防空に活躍した代表的な戦闘機として海軍の雷電・紫電・紫電改、陸軍の鍾馗・屠龍・飛燕・五式戦闘機などがあげられるが、高々度性能に劣る日本機ではB-29と同高度に達すること自体が難しく、同高度に達しても十分な機体性能は発揮できなかった。しかもB-29の高い防弾性や厚い弾幕に阻まれ、迎撃は困難を極めた。そのため機銃やアンテナをいっさい取り払った機体(「無抵抗機」と称した)を仕立て、これによってB-29に体当たりし迎え撃った。(参照:震天制空隊)
しかしこうした苦肉の策も、B-29がムスタングを初めとする優秀な最新鋭戦闘機を護衛に引き連れてくるようになると通用しなくなっていった。
|