大東亜戦争



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戦前において、大日本帝国では、アジア太平洋戦争を大東亜戦争と呼称していた。大東亜戦争という呼称は、1941年(昭和16)12月10日の日本の閣議決定、「今次の対米英戦争及今後情勢の推移に伴い生起することあるべき戦争は支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す」にちなむ(12月12日発表)。当時、大半のアジア諸国が欧米諸国の植民地支配下にある中で、大東亜戦争と呼称するのは、「大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず。」(情報局発表)として、この戦争はアジア諸国における欧米の植民地支配の打倒を目指すものと規定し、これは1943年(昭和18)11月の大東亜会議で「再確認」がなされている。

日本において太平洋戦争という呼称は、降伏後に当時の大東亜戦争という呼称が、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)により公文書において使用することが禁止されたため、連合国側表記に合わせる形で利用されるようになった。戦後制定された法律では全て「太平洋戦争」という語句を用いており(「沖縄振興特別措置法」平成十四年三月三十一日法律第十四号 等)、法律用語としてはこの呼称が定着している事から、現在では一般的に「太平洋戦争」が使われることが多い。

太平洋戦争ではなく大東亜戦争と呼称すべきとする説としては、日本においては閣議で決定した呼称であり、戦後も日本政府がこの決定を公式に否定した事実はなく、東京裁判史観に基づいた侵略戦争としての側面を徒に強調するものであるので、太平洋戦争の呼称ではなく、大東亜戦争の呼称を用いるべきであるし、日本が主権を回復した現在では「大東亜戦争」が正式な呼称であると主張している。

これに対し、「大東亜戦争」の呼称に否定的な意見としては、大東亜戦争の呼称の使用を主張する意見は、右派勢力を中心に大東亜戦争の思想背景でもある大東亜の理念を揚げ、戦争は解放戦争だった、良い面もあったなどといった見解を示す者が多いこと、またこのことから「大東亜戦争」の呼称を使用する事が「戦争賛美」、「復古的国粋主義を煽る」、「中韓を初めとしたアジア諸国への侵略に対する反省が乏しい」ことを表しているとして、使用に反対する意見も根強い。しかし、これらの意見を主張している人々は左翼・親中韓派が主であり、右翼からは自虐史観と非難されている。

なお、1931年の満州事変、1937年の盧溝橋事件に始まる日中戦争を太平洋戦争と一体のものとして「十五年戦争」と呼称することもある。

また、主戦場がアジアと太平洋に広がっていた面から、近年ではアジア太平洋戦争と呼ぶことが提唱されている。

1937年に勃発した盧溝橋事件(日中戦争)を受け、以前から中国における利権を巡り、大日本帝国と対立していたアメリカ合衆国、イギリス、オランダ等は日本に対して中国大陸への侵出を停止することを求めた。その中でアメリカ・イギリス・オランダは中国とともに石油と鉄鋼の輸出制限などの措置をとる様になる(ABCD包囲網)。これを自国に対する挑戦であると反発した日本はナチス・ドイツ、イタリア王国と日独伊三国軍事同盟を締結し、発言力を強めようとしたが、かえって日独伊と英米などとの対立に拍車をかける結果となった。

1941年4月から近衛文麿内閣は関係改善を目指してワシントンでアメリカと交渉を開始したが、7月に日本軍がフランス領インドシナへ侵出すると、両者の関係は決定的に悪化し、アメリカは在米日本資産の凍結、日本への石油輸出の全面禁止などを通告した。

10月に近衛内閣から代わった東條英機内閣は、11月20日アメリカに対する交渉最終案を甲乙二つ用意して来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使にハル国務長官に対し交付し以後の最終交渉に当たったが、蒋介石、ウィンストン・チャーチルイギリス首相の働きかけもある中11月26日朝、アメリカ海軍から台湾沖に日本船団の移動報告を受けた(実際は輸送船でアメリカ海軍が故意に過大な報告をした。)ルーズベルトアメリカ合衆国大統領は両案とも拒否し、中国・インドシナからの軍、警察力の撤退や日独伊三国同盟の否定などの条件を含む、いわゆるハル・ノートを来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使に提示した。これを日本に対する最後通牒と受け取った東条内閣は12月1日の御前会議において、日本時間12月8日の開戦を決定した。

最後通牒は日本時間で12月8日月曜日午前3時、ワシントン時間で12月7日午後1時に手交する予定であった。

12月6日午前6時30分の「第901号電」パイロット・メッセージから7日午前2時までに14部ある最後通牒と7日午前3時30分の「第907号電」(12月7日午後1時に手交の指令)はアメリカにある日本大使館に分割電送、指令により電信課の書記官2名が暗号解読タイプすることになった。

書記官室の寺崎書記官(敗戦後に外務次官)転勤の送別会が終了した後(タイプの一等書記官奥村勝蔵は友人とトランプをした)、井口貞夫参事官の指示で当直もなく、午前10時に出勤した電信課により最後通牒が作成され、日本時間で12月8日月曜日午前4時20分、ワシントン時間12月7日午後2時20分に来栖三郎特命全権大使、野村吉三郎大使が米国務省のコーデル・ハル国務長官に「対米覚書」を手交した。(平成6年(1994年)11月20日公開された1946年調査の外務省の公文書『「対米覚書」伝達遅延事情に関する記録』による。)

1941年12月8日(日本時間)、大日本帝国海軍はアメリカ太平洋艦隊の基地であるハワイオアフ島の真珠湾と、アジアにおけるイギリスの拠点であるシンガポール攻略のために、当時イギリスの植民地であったマレー半島のコタバルに奇襲攻撃を仕掛け、アメリカ・イギリス軍と交戦状態に入った。大日本帝国海軍は、山本五十六連合艦隊司令長官が考案し、後に一般的となった航空母艦を主力とした航空戦力による攻撃戦術で真珠湾におけるアメリカ海軍太平洋艦隊の奇襲攻撃いわゆる真珠湾攻撃を行なった。肝心の空母機動部隊は出払っており、完全に撃沈したと思われた艦艇も後に引き上げられて戦線に投入されている。また、二回行った航空攻撃では港湾施設と重油タンクへの攻撃はほとんど皆無で、三回目の航空攻撃を進言した部下の意見を南雲忠一第一機動部隊司令長官は主攻撃目標であったはずのアメリカ空母機動部隊の所在が掴めなかったことと、燃料不足が理由で了承しなかった。

一方、マレー沖では大日本帝国海軍はイギリス海軍の最新鋭戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを撃沈した(マレー沖海戦)。航空機が戦闘航行中の戦艦を撃沈するのは史上初めてであり、この戦闘で航空機優位を世界に示すこととなったが、当の日本海軍はそれを重要視することはなかった。フィリピン、シンガポール、ジャワ島、スマトラ島、ボルネオ島(当時)など日本が求めていた資源産出地域は緒戦において大日本帝国陸軍の占領地となった。第一段作戦は先制攻撃であることを含めても当初の予想を大きく下回る損害で成功裏に終わった。

開戦以降、快進撃を続けていた戦いの転機となったのがミッドウェー海戦である。ミッドウェー攻略に空母機動部隊が投入されることをアメリカ海軍は大日本帝国海軍の暗号無線を解読して察知。大日本帝国海軍は参加した空母4隻すべてが撃沈され、真珠湾攻撃以来のベテランパイロットも消耗し、大打撃を受けた。アメリカ海軍はガダルカナル島上陸を機に反攻に転じ、ソロモン海域で激しい戦闘が行われて双方とも多くの艦艇や航空機を失った。南太平洋海戦では太平洋でのアメリカ海軍の稼働空母を一時的に0とするなどしたが、結果、国力に劣る大日本帝国は守勢に追い込まれていった。

太平洋では、次第に制海権を失いつつある大日本帝国海軍に対し、アメリカ海軍はドイツのUボート戦法に倣って、潜水艦による輸送艦攻撃を行い、徹底してシーレーン破壊作戦を実行、物資や資源輸送を封じ込めた。

マリアナ沖海戦での大日本帝国海軍の敗北の結果、マリアナ諸島がアメリカに占領され、日本島の本州への直接の空襲が可能になった。アメリカ軍はドイツがイギリスに行った空爆を模範に、徹底的な日本本土への軍人、民間人への無差別空爆を行った。東京大空襲、大阪大空襲などがこれにあたる。

大日本帝国陸軍はガダルカナル島での戦闘やインド北部でのインパール作戦等の失敗で後退が続いていた。

レイテ沖海戦は世界史上最大の海戦となり、太平洋戦争において最後の大戦闘となった。この戦闘でアメリカ海軍は大日本帝国海軍をほぼ壊滅状態とさせ、以後海軍はまともな作戦行動は出来なくなった。

この際、大日本帝国海軍は航空機による特攻を行い、アメリカ海軍の護衛空母1隻を大破撃沈するという戦果を挙げた。この結果によって特攻は過大評価され、そのまま大日本帝国海軍の重要作戦として位置づけられ終戦まで続けられることになる。この神風特攻はアメリカ海軍の乗組員達を恐怖に陥れはしたが、戦局を変えるには至らなかった。南方の資源輸送航路の安全保障のために確保したフィリピンを失ったことにより資源輸送が途絶え、これはすなわち戦争継続の力がなくなったことを意味した。

その後、硫黄島をアメリカ海軍が占領し、続いて沖縄で戦闘が行われ、敗戦は濃厚となっていた。そして1945年5月には、ヨーロッパではドイツが降伏し、戦争は終結していた。この間外務省を通じて、当時日ソ中立条約によって国交のあったソビエト連邦に終戦の調停を申し入れたが拒否された。

米英中の三カ国によるポツダム宣言に対し、本土決戦ありきと継戦強硬派の軍部を抑え切れず、態度を保留していたうちにアメリカ合衆国によって、人類史上初の広島市への原子爆弾投下と長崎市への原子爆弾投下攻撃をされた。

この時すでに敗戦が決定的なものとなっており、事実政府が終戦に向けての交渉を各方面で進めていたため、米国の原爆投下は戦後のアジアの利権のためのソ連への牽制、またドイツへの攻撃予定がなくなったために行なわれたという見方も強い(科学者達は“ドイツより先に核を”と尻を叩かれていた)。

8月9日、ソ連は日ソ中立条約を破棄し、ソ連対日宣戦布告をして満州・朝鮮北部・南樺太に侵入した。ソ連による調停の望みはここに絶たれる。

1945年8月10日、政府は同盟通信社及び日本放送協会の短波を利用して、「天皇の大権が侵されない」ことを条件にポツダム宣言の受諾を全世界に通告、8月14日に御前会議において宣言の受諾を正式に決定し、8月15日、昭和天皇の声明を録音したレコードで、全国に同宣言の受諾を国民に知らせる玉音放送が行なわれた。

武装解除などを経て戦闘が終息した後、1945年9月2日、東京湾内に停泊したアメリカ戦艦ミズーリにおいて昭和天皇・大日本帝国政府全権重光葵外務大臣と大本営全権梅津美治郎参謀総長による降伏文書への調印による降伏がなされ、ここに、太平洋戦争はついに終結した。

しかし、沖縄や南洋諸島においては兵士達による局所的な戦闘が散発的に続けられ、南樺太と千島列島では、9月4日までソ連軍との戦闘が行われた。また、戦争中はアメリカ合衆国、ペルーをはじめ南米13カ国日系移民をアメリカ本国や自国の強制収容所に強制移動させられた。

戦後、東京にアメリカ陸軍の元帥であるダグラス・マッカーサーを総司令官とする連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)が置かれた。沖縄、奄美諸島、小笠原諸島、トカラ列島は日本本土から切り離されアメリカ統治下におかれた。千島、樺太、歯舞、色丹はソ連に占領された。

まず初めに戦争責任を追及する東京裁判が開かれ、元総理の東条英機陸軍大将、外交官で元総理の広田弘毅らが連合国により戦犯として裁かれ、7名がA級戦犯として死刑(絞首)に処されたほか、元内大臣の木戸幸一、元陸軍大臣の荒木貞夫らが終身刑、元外相の東郷茂徳は禁固20年、元外相の重光葵は禁固7年となった。なお、昭和天皇は裁判を免れたほか、岸信介、児玉誉士夫、笹川良一、正力松太郎らは不起訴となった。また、フィリピンや中国など各地で同じように戦争裁判(B、C級戦犯)が行われたが、裁判の体を成していないものも多く、多くの無実の人も罪に問われ処刑されていった。

次に治安維持法の廃止や日本国憲法の制定を行い戦後体制を確立した。また、内務省の廃止や財閥解体、農地改革など矢継ぎ早に民主化と称する改革を行ったが、民主化政策はその後の冷戦体制のため変更され、警察予備隊の設置や共産党員の公職追放(レッドパージ)が行われた。その後締結された1952年のサンフランシスコ講和条約により連合国総司令部は廃止となり、戦後処理は終了した。

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