硫黄島戦争



硫黄島戦争
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硫黄島の戦いいおうじまのたたかい)とは、、大東亜戦争の中で、日本軍とアメリカ軍の間で起きた、1945年2月18日から1945年3月22日にかけての戦い。
1945年2月18日、米軍上陸開始。日本軍による組織的戦闘は3月22日に終結。

米軍はサイパン島占領後、B29によるから長距離爆撃を行っていたが、その長距離から護衛戦闘機が同伴できず、日本軍防空機にかなりの損害を被っていた。
そこで米軍は、援護機の配備、緊急着陸基地の確保と長距離爆撃の効果を挙げるため、硫黄島の確保を必要としていた。

栗林忠道陸軍中将(戦死後陸軍大将)は、昭和19年5月、第109師団長となり小笠原地区集団軍司令部として父島に赴任した。初め、要塞のある父島に司令部を置くことになっていたが、情勢を調査した栗林中将と大本営は、米軍が硫黄島を攻略することを見抜き、無防備に等しい硫黄島に直ちに司令部を移し、即日島全体の洞窟を利用した地下陣地の構築に着手した。

地下で全島を結ぶことになっていた坑道は最も深いところは12mから15mに及び、また工事の遅れを無くすため作業中は一切の敬礼をやめるように命令するなど、陣地構築作業は徹底していた。

しかし、地下の猛烈な湿度や温度、そして硫黄ガスにより兵士は短時間しか作業に従事できず、加えて米軍の潜水艦による妨害によって物資が思うように届かないなどにより計画は遅れてしまい、坑道の長さ28kmの計画が18km程しか完成できず、また擂鉢山への坑道が僅かなところで未完成のままで米軍を迎い撃つことになったが、その地下坑道、及び陣地は所定の役割を十二分に果たした。

硫黄島の戦いで、日本軍は守備兵力20,933名のうち20,129名(軍属82名を含む)が戦死した。捕虜となった人数は3月末までに200名、終戦までにあわせて1,023名であった。アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名の損害を受けた。硫黄島の戦いは、太平洋戦争後期の島嶼防衛戦において、アメリカ軍地上部隊の損害が日本軍の損害を上回った稀有な戦闘であり、また、上陸後わずか3日間にて当時のD-デイを含むアメリカ軍の各戦場での戦死傷者数を上回った。2月23日に星条旗を摺鉢山に掲げた6名の海兵隊員のうち、生きて故国の地を踏むことが出来たのは3名のみであった。第3、第4、第5海兵師団は硫黄島の戦いで受けた痛手のために沖縄戦には参加できなかった。第二次世界大戦中にアメリカ海兵隊に与えられた名誉勲章の4分の1以上が硫黄島侵攻部隊のために与えられた。アメリカ海軍はいくつかの艦船に「イオー・ジマ」と命名している。 アーリントン国立墓地の近くに位置するアメリカ海兵隊戦争記念碑は、硫黄島の戦いで掲げられた星条旗をかたどったものである。

硫黄島の奪取によってアメリカ軍は日本本土空襲の為の理想的な中間基地を手に入れた。活動を本格的に活発化させたアメリカ軍爆撃兵団は、東京大空襲(1945年3月10日)、名古屋大空襲(12日)、大阪大空襲(13日)を続けざまに実施した。東京空襲の後の横浜空襲からは硫黄島を基地とする長距離戦闘機P-51の護衛がついた。アメリカ陸軍航空軍の中で実際に爆撃機を運用していた各爆撃兵団の司令官達は、単発戦闘機の長距離護衛を面倒なお荷物としてかなり低く評価していたが、現実的には双発の邀撃機の活動を昼間は不可能にしたばかりか、日本軍戦闘機の邀撃を困難にした。さらに、終戦までの間に2,251機のB-29が硫黄島に不時着し、延べ2万名以上の乗員の生命が救われたとされている。

1985年2月19日、硫黄島において、日本とアメリカ双方の退役軍人ら400名による合同慰霊祭が行われた。かつて敵として戦った双方の参加者たちは互いに歩み寄り、抱き合って涙を流したという。この日建立された慰霊碑には日本語と英語で次の文章が綴られている。「我々同志は死生を越えて、勇気と名誉とを以て戦った事を銘記すると共に、硫黄島での我々の犠牲を常に心に留め、且つ決して之れを繰り返す事のないように祈る次第である。」

1945年1月まで海軍の硫黄島警備隊司令の任にあった和智恒蔵海軍大佐は、防御戦術に関して栗林中将と対立し、アメリカ軍の上陸の前に本土へ送り返されていた。戦後、和智は天台宗の僧となり、硫黄島協会を設立して、硫黄島の戦いにおける戦没者の供養と遺骨収集とに取り組んだ。

硫黄島では、戦時中および戦後に駐留したアメリカ兵によって日本兵の遺体の一部が損壊され、記念品として本国に持ち帰られていた。和智は1952年に日本人として戦後初めて硫黄島を訪問した。そのとき、和智によれば約1,000体の遺体から頭蓋骨が紛失していた。和智は遺体の返還を日米両政府に対して運動した。運動は米国でも新聞記事や書物によって紹介され、1985年、元兵士や市民らから3体の頭蓋骨が硫黄島協会へ引き渡された。これらは自らが硫黄島から持ち帰ったり、骨董品店で入手したものであったという。

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