命のビザ



日本のシンドラーと言われた男と命のビザ
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杉原 千畝(すぎはら ちうね)は日本の官僚、外交官。第二次世界大戦の際、外務省の命令に反してユダヤ人が亡命できるようにビザを発給し、ナチスによる迫害からおよそ6000人にのぼるユダヤ人を救ったことで知られている。
第二次世界大戦中、外務省の命令に反してトランジットビザを発給することでナチス・ドイツによる迫害から約6000人ものユダヤ人を救った。海外では、センポ・スギハラ、「日本のシンドラー」とも呼ばれる。「センポ」と音読みで呼ばせた理由は主に「ちうね」という発音のしにくさから、千畝自身がユダヤ人に「センポ」と呼ばせたとされている。

1900年、岐阜県八百津町に生まれる。旧制愛知県立第五中学(現愛知県立瑞陵高校)卒業後、千畝が医師になることを嘱望していた父の意に反し、1918年に早稲田大学高等師範部英語科予科に入学。翌1919年には大学を中退し、外務省の官費留学生として中国のハルビンに派遣され、ロシア語を学ぶ。そして、1924年に外務省書記生として採用され、外交官となる。1932年から1935年にかけての満州外交部時代にはロシア外交の専門家としてソ連との北満州鉄道をめぐる交渉を担当。帰国後、幸子と再婚。その後、1937年にはフィンランドのヘルシンキ日本大使館に赴任し、次いで1939年にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となる。
1940年夏、ナチス占領下のポーランドからリトアニアに逃亡してきた多くのユダヤ人が各国の領事館・大使館からビザを取得しようとしていた。ソ連がリトアニアを併合し、各国に在リトアニア領事館・大使館の閉鎖を求めたため、ユダヤ難民たちは業務を続けていた日本領事館に通過ビザを求めて殺到した。当時、日本政府はユダヤ人に対する中立的な政策を公式に取っていたとはいえ、通過ビザの発給を受けるためには十分な旅費を備えるなど規定の条件を満たすことを要求していた。これは外務省ユダヤ難民取り扱い規則により、表向きはユダヤ難民を他の難民と公平に扱う中立さを装いつつビザの発給資格を異常に高くすることでユダヤ難民を事実上締め出すことを狙っていたからである。
ユダヤ人難民のほとんどはこの受給資格を欠いていたため、千畝は本国外務省に伺いを立てるが、発給は許可されない。
こうした政府の指示に背いて、1940年7月の終わり、千畝は日本通過ビザを要件の整わないユダヤ人たちにも半ば無制限に発給することを決断。ソ連政府や本国から再三の退去命令を受けながらも、千畝と妻・幸子はベルリンへ旅立つ9月の初めまでおよそ1ヶ月余りビザを書き続けたとされる。その間発行されたビザの枚数は番号が付され記録されているものだけでもおよそ2100枚。途中から記録するのをやめてしまったと言われているため、実際には記録に残っているビザ以外にも数千枚のビザや渡航証明証が発給されたという説もある。また、1家族につき、1枚のビザで十分であったため、家族を含めて少なくとも6000人ものユダヤ人の国外脱出を助けたとされる。
その後、国外脱出を果たしたユダヤ人たちは、シベリア鉄道を経由し、ユダヤ系ロシア人のコミュニティがあった神戸に辿り着く。そのうち、1000人ほどはアメリカやパレスチナに向かい、残りは後に上海に送還されるまで日本に留まった。上海にもユダヤ人難民の大きなコミュニティがあり、そこでユダヤ人たちは日本が降伏する1945年まで過ごすことになる。一方、彼らが脱出したリトアニアはその後、独ソ戦が勃発した1941年にドイツの猛攻撃を受け、ソ連軍は撤退。以後、1944年の夏に再びソ連によって奪回されるまで、ドイツの占領下となる。この間のユダヤ人犠牲者は20万人近くに上るとされている。



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