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【第一次世界大戦末期のドイツ】ドイツは,1917年2月,無制限潜水艦戦によっていったん優位に立ったが,4月のアメリカの参戦以後不利に立たされることになった。このような戦況のなかで,中央党が提出した講和決議案が社会民主党や進歩人民党の支持を得て成立した。ところが,1918年3月,ブレスト・リトフスク条約が結ばれて二正面作戦の負担から解放されると,ドイツは西部戦線での大攻勢に転じた。しかし,結局は失敗し,軍部も講和への動きをみせるようになった。そして10月には,自由主義的貴族として知られたバーデン大公マックスが新しい首相に任命され,直ちにウィルソン大統領に休戦と14カ条にもとづく講和を求めた。これに対してウィルソンは,無制限潜水艦戦の中止や民主的な政策の樹立などを条件として示した。しかし,政府が休戦交渉をすすめている一方で,軍部は戦争続行の動きをやめず,またウィルヘルム2世も退位の意志を示そうとしなかった。このような情勢のなかで,平和を求める国民のあいだに不満と動揺がひろまっていた。
【キール軍港の水兵反乱】1918年10月24日,ドイツ海軍の最高司令部は,ヴィルヘルムスハーフェン軍港の艦隊に出動命令を出した。厭戦(えんせん)的気運と将校に対する不満をもっていた水兵たちは,これを拒否して反乱をおこした。これがきっかけとなって反乱はキール軍港にも波及し,11月3日,水兵たちはキールの街でデモを行った。これに対して,パトロール隊が発砲して死傷者を出したことから,反乱は拡大し,労働者も合流して労働者・水兵レーテ(評議会)を結成し,市政を掌握した。反乱の火はたちまち各地に燃えひろがり,全国の都市と港にレーテが設立された。そしてバイエルンでは,11月8日に共和政府樹立が宣言された。11月9日,ベルリンでゼネストがおこり,労働者の大デモ隊が市内にあふれた。このような事態に対して,社会民主党のエーベルトとシャイデマンらは,マックス首相を訪問して民主政府の即時樹立を要求した。首相も皇帝に退位を求めたが受け入れられず,ついに皇帝の同意を得ないまま,一方的にその退位を発表した。同9日午後,シャイデマンは議事堂の窓から群衆にむかって「大ドイツ共和国万歳」と叫んで,独断で共和政の成立を宣言した。
【新政府下の動き】11月10日,エーベルトを首班とする社会民主党と独立社会民主党の連合政府が,ベルリン労働者・兵士レーテの承認を経て成立した。新政府は直ちに連合国と休戦協定を結び,11日午前11時にそれが発効した。しかし,新政府はさまざまな困難に直面した。なかでも,独立社会民主党に属するスパルタクス団などの極左派は,レーテに基盤を置く政治を主張し,憲法制定議会を召集しようとする社会民主党の方針と激しく対立した。12月に入って,全ドイツのレーテ大会が開かれた。しかし,ベルリン以外のレーテは極左的改革を望まず,大会は社会民主党に有利に展開し,翌年1月19日に憲法制定議会の選挙の実施を決定した。
【ベルリン暴動】1918年12月末,ローザ=ルクセンブルクとリープクネヒトを指導者とするスパルタクス団が,独立社会民主党から分裂してドイツ共産党を結成した。新党には観念的知識人が多く,実践家が少なかった。1919年1月,政府が革命擁護派のベルリン警視総監を罷免したことから,それに反対する20万人のデモが,5日べルリンで行われた。夜には革命行動委員会が設立され,6日にはゼネストとデモを行うことが決定された。しかし,共産党など蜂起派は,この事態を適切に指導できずに孤立し,8日から政府側の攻撃にさらされることになった。抵抗者・容疑者は逮捕されて次々に殺害された。ルクセンブルクとリープクネヒトも隠れ家で捕えられて惨殺された。このあいだにも選挙の準備はすすめられ,予定どおり19日に行われた。憲法制定の国民議会は,騒乱の地ベルリンを避けて文化の栄えたワイマールで開かれた。
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