| 1890〜1970 フランスの将軍・政治家。イエズス会学院校長を父に,熱心なカトリックの家の生まれ。1912年,サン=シール陸軍士官学校を卒業。1916年のヴェルダン攻防戦で負傷し,捕虜となる。休戦後の1920年夏,ヴェガン将軍のもとでワルシャワ防衛戦に参加,1925年にはペタン元帥の部下となり,陸軍大学で講義を行い,ラインラント占領軍に勤務。1932年に『剣の刃』,1934年に『職業的軍隊をめざして』,1938年に『フランスとその軍隊』を出版。それらのなかでの,機甲部隊・空軍力の有効性の主張とマジノ線依拠への批判は,ペタンとの不和とレイノーの賛同を得る。第2次世界大戦後の1940年5月,臨時准将として第四装甲師団長,6月にはレイノー内閣の国防次官となる。パリ陥落後も,北アフリカからの抗戦継続を主張するが,ペタンによる組閣・降伏の動きを前に,ロンドンからBBC放送を通じてレジスタンスを呼びかけ,自由フランスを樹立する。ド=ゴール=自由フランスが赤道アフリカ・西アフリカを事実上支配する一方,連合軍はアルジェリア上陸(1942年11月)後,ヴィシー派のダルラン提督(同年12月暗殺),ついでジロー将軍を高等弁務官に任命した。ルーズヴェルト=アメリカ大統領らがド=ゴールの独裁者的・権威的姿勢を嫌ったためである。しかしド=ゴールはジローを追い落とし,全国抵抗評議会の支持をかちとり,1944年6月のフランス共和国臨時政府樹立,連合軍のノルマンディー上陸作戦をへて,同年8月25日,解放されたパリに凱旋した。1944年9月に臨時政府を改組したド=ゴールの課題は,フランスの戦後政治体制の確定とドイツ問題など戦後処理をめぐる国際政治とであった。後者については,ヤルタ会談(1945年2月)への不招待など屈辱を味わい,自由フランスヘのアメリカの対応の経緯もあって,ド=ゴールのその後の対アメリカ独自路線をもたらすにいたる。前者については,1945年10月選挙による制憲議会,1946年6月選挙による第二次制憲議会をへて同年10月に第四共和国憲法が国民投票で承認されることとなった。第三共和政下の政治(議会優位の政党政治)を批判し,執行権の強化・安定を願っていたド=ゴールは1946年1月に首相を辞任する。1947年4月に反共産主義・憲法改正を掲げてフランス国民連合を結成するが,1953年にはこれを解散して下野,大戦回顧録の執筆をつづけた。しかしアルジェリア民族独立戦争とフランス現地軍の反乱から内戦への危機とを前に第四共和政は有効な解決策をみいだせず,「救国の英雄」ド=ゴールを切り札に迎える。1958年6月に首相となったド=ゴールは,強力な政府を可能とする新憲法の制定を第一目標に据える。9月の国民投票による圧倒的承認をへて,10月,大統領に強大な権限を付与する第5共和国憲法が公布される。11月総選拳でド=ゴール派の新共和国連合は第一党となり,12月には圧倒的支持(選挙人団の78%)を得て第五共和国初代大統領となる。ド=ゴールは議会によって与えられた特別権限,アルジェリア民族自決に関する国民投票を背景にアルジェリア民族解放戦線と本格交渉に入る一方,1961年4月のサラン将軍らのクーデターも鎮圧して,1962年3月のエヴィアン協定調印を達成した。経済面では新フラン発行・国家投資強化・産業近代化をはかる。国際面では,1960年2月のサハラ砂漠での原爆実験,ヨーロッパ経済共同体へのイギリス加盟拒否,中華人民共和国承認(1964)など,二極構造からの自立を追求した。1962年の憲法改正によって大統領の直接選挙制を導入するが,このころからド=ゴール支持はかげり始め,1965年12月の大統領選挙では第2回投票での辛勝,1967年総選挙でも与党連合は辛勝であった。1968年「5月危機」をグルネル協定と“参加”で乗り切ったド=ゴールは,危機への反動として6月総選挙で圧勝(共和国防衛同盟の単独過半数)を得たがもはや往時の威信はない。1969年4月,上院を諮問機関にかえ,地方議会の権限拡大のための憲法改正を国民投票に付したが反対多数。ド=ゴールは直ちに引退を表明した。 |
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