朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)は、成立したばかりの大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の間で朝鮮半島の主権を巡って勃発した紛争から発展した国際戦争(1950年6月27日の国連安全保障理事会の決議では、北朝鮮による韓国への侵略戦争と定義している)である。この戦争によって朝鮮全土が戦場となり荒廃し、朝鮮半島は南北二国による分断が確定されることになった。
韓国側にはほぼ米軍で構成された国連軍(正式には国連派遣軍)が、北朝鮮側には中国軍が加わった。なお、日本では「朝鮮戦争」と呼んでいるが、韓国では韓国戦争や韓国動乱あるいは開戦日にちなみ6・25(ユギオ)、北朝鮮では祖国解放戦争、北朝鮮を支援した中国では抗美援朝戦争(「美」は中国語表記でアメリカの略)、韓国を支援し国連軍として戦ったアメリカではKorean Warと呼ばれている。また、戦況が一進一退を繰り返したことから別名アコーディオン戦争とも呼ばれる。 1945年8月15日に日本が連合国に降伏し、第二次世界大戦が終結すると、日本は朝鮮半島における総督統治を終了し、自主独立への道を歩みだした。このとき、日本は朝鮮を国家として独立させるのではなく、自治領として緩やかな連邦制とする望みを持っていたが、すでにヤルタ会談によって朝鮮は日本から分離させられることが決定していた。朝鮮人は戦後直ちに建国準備委員会を設置、9月に朝鮮人民共和国の成立を宣言した。 日本の降伏直前から降伏後にかけ、北の満州と沿海州からソビエト連邦軍がヤルタ協定に基づいて侵攻、その後も日本軍の武装解除のために駐留しており、9月2日に日本が降伏文書に調印すると、南からアメリカ合衆国軍が協定に基づいて進駐、半島中央に横切る北緯38度線を挟んで半島を南北に分割し、軍政をしいて占領下において共和国は解消された。このときはまだ双方の往来は自由であったが、北半部では抗日パルチザン金日成がソ連の後押しで力を強めていた。 年末、モスクワで米・英・ソの外相会議が開かれ、朝鮮半島問題も議題に上った。会議では朝鮮半島全域を5年間、米英ソと中華民国で信託統治とすることを決定した。独立国家の建設を準備するため、米ソ共同委員会を設置した。北の代表・金日成と南の李承晩で国家運営を語り合わせ、正式に独立させようというものであった。金日成はこの提案に乗り気であったと伝えられる。しかし、共産主義嫌いで強硬な民族主義者であった李承晩は、即時独立を主張してこの提案を断固拒否、米ソの対立もあって信託統治案は座礁した。
ところが大戦後の世界は、アメリカとソ連の相反するイデオロギーの対立から冷戦が激化、それは朝鮮半島にも暗い影を落とした。1946年2月、北半部では、ソ連が後押しするパルチザンの指導者だった金日成を中心とした共産勢力は「朝鮮臨時人民委員会」を設立、8月には重要産業国有法を施行し、共産主義国家への道を歩みだした。
米ソのイデオロギー対立は東西冷戦として、まずドイツ・ベルリンで対決色を強めたが、地球の反対側ではフランス領インドシナのベトナムが共産主義者に率いられて独立運動を繰り広げ、中国大陸も赤化が目前であった。
日本統治時代にアメリカに亡命し、独立運動を繰り広げてきた李承晩はアメリカに対し、南部単独での独立を主張し、北との融和を唱える政治家が次々に殺害される事態となった。アメリカはこの混乱に屈し、南半部に1947年6月、李承晩を中心に「南朝鮮過渡政府」を建てた。11月、アメリカは朝鮮半島問題を国際社会に問うため、できたばかりの国際連合に提訴した。
金日成は翌1948年2月に朝鮮人民軍を結成、3月には南半部への送電を停止した。(当時、南は電力を日本が北に建設した水力発電所に頼りきっていた。)これは意固地になっている李承晩への恫喝だったと考えられ、これによって南が譲歩すると読んだのかも知れないが、現実は全く逆に進んだ。この後数ヶ月をかけ、李承晩はアメリカに独立を認めさせようと奮戦していたのである。これにアメリカ政府も遂に折れた。
1948年8月13日、李承晩は北半部を無視して大韓民国の成立を宣言した。金日成はこれに激怒し、9月9日、ソ連の支えによって朝鮮民主主義人民共和国を成立させ、朝鮮半島の南北分断はここに決定し、北緯38度線は国境となった。金日成は李承晩を倒して祖国統一するために、ソ連指導者ヨシフ・スターリンに南半部への武力侵攻の許可を求めていたが、アメリカとの直接戦争を望まないスターリンは許可せず、12月にソ連軍は朝鮮半島から撤退した。
1949年6月、米軍も軍政をとき、司令部は撤収した。それを受けて北朝鮮は祖国統一民主主義戦線を結成。同じころ、地続きの中国大陸では国共内戦の末、毛沢東の中国共産党が勝利し、10月1日、中華人民共和国が成立した。アメリカはすでに、抗日戦争では熱心に支援していた蒋介石の国民党に勝機が見えないと踏んで援助を止めていた。韓国では11月に国家保安法が成立した。
1950年1月12日、アメリカ国務長官アチソンが「アメリカが責任をもつ防衛ラインは、フィリピン〜沖縄〜日本〜アリューシャン列島までである。それ以外の地域は責任をもたない。」と発言した。金日成はこれを西側陣営の南半部(韓国)放棄と受け取ったが、アメリカは同月に米韓軍事協定を結んでいた。
同年3月、ソ連を訪問して改めて開戦許可を求めた金日成と朴憲永に対し、スターリンは中華人民共和国成立後のアジア情勢の変化を受けてか、毛沢東の許可を得ることを条件に南半部への侵攻を容認した。同年5月、中国を訪問した金日成は、北朝鮮による南半部への侵攻を中国が援助するという約束を取り付けた。中国が北朝鮮を当初から積極的に支援したという誤解があるが、ソ連の支援が小規模な事がわかり中国国内では消極的意見が主流だった。また、直前になってから侵攻計画を知らされた事に不満の声もあった。
6月25日、朝鮮人民軍が「暴風」(ポップン)の暗号と同時に38度線を越境、南半部へ侵攻した。ただし北朝鮮側は、当時から現在に至るまで、韓国側が先制攻撃したものに反撃したのが開戦の理由だとしている。
1950年6月25日、北朝鮮軍約10万が38度線を突破した。6月27日、国連安全保障理事会はソ連が中国政府認証問題に抗議しての欠席中に「北朝鮮弾劾決議」を採択、韓国を防衛するため米軍25万人を中心とする国連軍を結成した。なお、国連軍にはイギリス、オーストラリア、ベルギー軍なども参加した(参戦国は後述する)。
しかし、北朝鮮軍の奇襲と第二次世界大戦時最強の戦車のひとつであったソ連製のT-34/85を中核にした攻撃により対戦車装備を持たない韓国軍は総崩れとなり、韓国政府は首都を水原に遷都、6月28日、ソウルが陥落した。このソウル陥落の際、命令系統が混乱した韓国軍は避難民もろとも漢江にかかる橋を爆破した。これにより漢江以北には多数の軍部隊や住民が取り残され、自力で脱出する事になる。また、この失敗により士気もさがり韓国軍は全滅が現実のものと感じられる状況になった。
ところが、韓国軍が総崩れのなか、北朝鮮軍は何故か突然南進をやめ、3日間の空白の時を作った。この3日間は韓国軍およびアメリカにとって貴重な時間を作ることになったが、今をもっても、なぜ北朝鮮が3日間も貴重な時間を無為に過ごしたかは謎となっている。このとき、引き続き南進を続けていれば、韓国という国はなくなっていたかもしれない。
6月29日、日本に進駐していた米軍が急遽、朝鮮半島に派兵された。しかし、準備不足の国連軍は烏山の戦闘など各地で敗北を続け、米軍が大田攻防戦で歴史的大敗を喫すると、とうとう国連軍は最後の砦洛東江円陣にまで追い詰められた。また、この時韓国軍は保導連盟員や政治犯などを多数殺害した(保導連盟事件)。
北朝鮮軍は不足し始めた兵力を現地から徴集した兵で補い(離散家族発生の一因となった)、再三に渡り大攻勢を繰り広げる。金日成は開放記念日の8月15日までに統一するつもりであったが、国連軍は徹底抗戦の構えを崩さず釜山橋頭堡でしぶとく抵抗を続け、北朝鮮軍の進撃は止まった。
連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサー元帥は戦線建て直しに全力を注ぎ、数度にわたる牽制の後の9月15日、仁川に国連軍を上陸させる事に成功した。仁川と釜山から挟み撃ちにされた北朝鮮軍は敗走を続け、9月28日に国連軍がソウルを奪回した。この時敗走した北朝鮮兵の残党が韓国内でゲリラ化し、国連軍は悩まされた。
10月1日、韓国軍は祖国統一の好機と踏み、国連軍の承認を受けて、単独で38度線を突破した。10月2日、韓国軍の進撃に対し北朝鮮は中国に参戦を要請。中国の国務院総理(首相)周恩来は国連軍が38度線を越境すれば参戦すると警告。だが10月9日、国連軍も38度線を超えて進撃した。
これまで参戦には消極的だった中国も、遂に開戦前の北朝鮮との約束に従って人民解放軍を派遣することを決定する。派兵された中国人民志願軍は彭徳懐を司令官とし、最前線だけで20万人規模、後方待機も含めると100万人規模という大軍だった。
10月20日、国連軍は北朝鮮の臨時首都・平壌(※北朝鮮は、1948年〜1972年までソウルを首都に定めていた)を制圧、敗走する北朝鮮軍を追い、中国軍の派遣に気付かずになおも進撃を続けた。先行していた韓国軍は一時中朝国境の鴨緑江に達し、統一間近とまで騒がれた。
だが、10月から朝鮮への進入を開始した中国軍は山間部を移動し、神出鬼没な攻撃と人海戦術により国連軍を圧倒、その山間部を進撃していた韓国第二軍が壊滅すると黄海側、日本海側を進む国連軍も包囲され、38度線近くまで潰走した。
また、ソ連の援助によって上空に新鋭ジェット戦闘機MiG-15が飛来、国連軍のレシプロ戦闘機やアメリカ合衆国の主力ジェット戦闘機のF-84やF-80を圧倒したものの、すぐさまアメリカ軍も最新鋭ジェット戦闘機F-86Aを投入した。
初期のMiG-15は機体に欠陥を抱えていたこともありF-86は一時中朝軍を北方へ押し返す働きを見せたが、改良型のMiG-15bisが投入されると再び国連軍戦闘機の優位は揺らぎ、アメリカ合衆国は改良型のF-86EやF-86Fを次々に投入してどうにかこれを凌いだ。F-86の生産はアメリカ合衆国だけでは賄いきれず、隣国カナダのカナデア社も多数のF-86(セイバーMk.5など)を生産してこれを助けた。最終的にF-86とMiG-15の撃墜率は7対1になったといわれているが、この撃墜率には諸説あり、アメリカ合衆国では以前この倍以上の撃墜率が主張されていた。一方ロシアでは2対1の損失であったとされている。いずれにせよ、創設間もない中国軍や北朝鮮軍のパイロットが、歴戦の国連軍パイロットを相手にこの程度の損失しか出さなかったということは驚きに値する。北朝鮮軍の国籍識別標識をつけたMiG-15を操縦していたのは戦争初期にはソ連軍パイロットであったが、後半には中国人パイロットもかなりの人数が参戦するようになり、朝鮮人パイロットもある程度参加したといわれている。
MiG-15による制空権奪還で勢いづいた中朝軍は12月5日に平壌を奪回し、1951年1月4日にはソウルを再度奪回した。韓国軍・国連軍の戦線はもはや壊滅し、2月までに忠清道まで退却した。だが近代兵器に劣り、人海戦術に頼っていた中国軍は度重なる戦闘ですぐさま消耗し、攻撃が鈍り始めた。
それに対し国連軍はようやく態勢を立て直して反撃を開始。3月14日にソウルを再奪回し、戦況は38度線付近で膠着状態となる。戦況にいらだったマッカーサーは、日本が一大工業地帯として築いた中国東北部(満州)を空爆し、中国軍の補給を絶とうとする(原子爆弾も使おうとしたとされる)が、ソ連を刺激することを恐れたトルーマン・アメリカ合衆国大統領は、4月11日にマッカーサーを解任する。
この後、ソ連の提案により停戦が模索され、1951年7月から休戦会談が断続的に繰り返されたが、双方が少しでも有利な条件での停戦を要求するため交渉は難航。結局、スターリン死後の1953年7月27日、板門店で北朝鮮・中国と国連軍の間で休戦協定が結ばれ、3年間続いた戦争は終結した。李承晩はこの停戦協定を不服として調印式に参加しなかった。板門店に近いため大都市の開城を奪回できなかったのは国連軍の失敗であった。
ソウルの支配者が二転三転する激しい戦闘の結果、400万の犠牲者が出たとされる。また、夫が韓国軍の兵士として戦っている間に郷里が占領された、というような離散家族が多数生まれた。両軍の最前線(今日の軍事境界線。厳密には38度線に沿っていないが、38度線と呼ぶ)が事実上の国境線となり、南北間の往来が絶望的となったうえ、双方の政権(李承晩、金日成)が独裁政権として安定することとなった。度線を挟んで膠着状態が続きました。この一進一退
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