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アメリカ爆撃テロ事件は、2001年9月11日にアメリカ合衆国で起きたテロ事件である。9月11日に起きたことから911(きゅういちいち)、9・11(きゅうてんいちいち)とも呼ばれる。
イスラム過激派によってハイジャックされた4機の大型ジェット旅客機が、アメリカ国内の複数の地上施設めがけ激突したことにより、2973人の犠牲者を出した。
オサマ・ビンラディンが「犯行を指揮した」と証言したとされる映像が2001年12月13日に公開され、また「モハメド・アタを通じて犯行を指揮した」と証言したとされる音声も2004年の大統領選挙直前に公開されている。
事件後、アメリカは対テロ戦争としてアフガニスタン戦争とイラク戦争を行うことになる。
日本では、この事件を「同時多発テロ事件」または「911テロ(事件)」と呼ぶのが一般的である。。 ただ2005年にイギリス、ロンドンでロンドン同時爆破事件が発生したため、「アメリカ同時多発テロ事件」と呼ぶことが増えた。
イギリスやアメリカなどの英語メディアでは、この事件を「9/11」(ナイン・(オー)・イレブン)、「9月11日の事件」 などと呼ぶ。中国語圏では、「九一一事件」と呼ぶ。
ただし中南米では9.11はチリで1973年9月11日に発生したアウグスト・ピノチェトらによるクーデターを指すこともある。
2001年9月11日朝(現地時間)、マサチューセッツ州ボストン、バージニア州アーリントン、ニュージャージー州ニューアークを発った4機の旅客機が、モハメド・アタを中心とするアラブ系のグループによってほぼ同時にハイジャックされた。彼らは操縦室を乗っ取り自ら操縦桿を握り、2機がニューヨークマンハッタン、2機がワシントンD.C.へ向かった。
なお、乗っ取られた4機のうち2機がアメリカのボーイング社製のボーイング767型機で、残りの2機がボーイング757型機であるが、この2種類の機体は、運行する航空会社のパイロットの互換性を持たせるためにコクピットの操縦システムが基本的に同じものが使われており、ともに2人のみで操縦できるため、あえてこれらの機体が運行されている便が選択されハイジャックされたと見られている。また、ハイジャック犯達はアメリカ国内にある民間の航空学校へ行き航空機の基本的な操縦法を学んでいた上、これらの機体の操縦方法を事前にフライトシミュレータで訓練していたことが明らかになっている。
また、これら4機がいずれもアメリカ大陸横断ルートという、アメリカ国内線の中では長距離飛行に入るルートを飛ぶものであったのは、いずれも燃料積載量が多く、衝突後の延焼規模を多くすることを狙ったと推測された。
なお、ハイジャックされ墜落させられた旅客機の乗客・乗員は全員死亡している。
世界貿易センタービル・ツインタワーの北棟は、8時46分にアメリカン航空11便の突入を受けて爆発炎上した。1機目の激突は、数日前から地元消防署の日常を取材していたフランスのテレビ局から派遣されていた兄弟によって偶然撮影(ガス漏れの通報があり出動していた消防隊に同行していた)され翌日に報道されている。この時点では多くのメディアが普通の航空機事故として報じた。1機目激突を映像で見たブッシュ大統領も事故だと考えたと発言した。
続いて、9時3分に南棟がユナイテッド航空175便の突入を受け、爆発炎上した。2機目の激突は1機目の激突後にテレビ中継を行っていた際に発生し、日本を含む世界各国に1機目の衝突を臨時ニュースとして国際中継していた間におこった出来事であるため、前代未聞かつ衝撃的な映像を多くの人たちがリアルタイムで見る事となった(この時点で、事故ではなく故意に起こされた「事件」であることが認識された)。また、撮影クルーが多くいた為、旅客機が激突する瞬間がプロやアマチュアを問わない多くのカメラマンにて撮影されている。
ツインタワーは、ジェット旅客機のボーイング707が突入しても崩壊しないよう設計されていたはずだった(あくまで衝突のダメージのみを換算されていたものであり、ジェット燃料の延焼による火災のダメージは換算されていなかった)。だが、実際に高速で突入した同サイズのボーイング767によってビル上部は激しく損傷、漏れ出したジェット燃料は吹き抜けを通して下層階にまで達し、爆発的火災が発生した。次いで火災の熱による鉄骨の破断でタワーは強度を失い、9時59分に南棟が突入を受けた上部から砕けるように崩壊した。北棟も10時28分に南棟と同様、砕けるように崩壊した。かつて世界最高を誇ったツインタワーは両棟ともに完全に崩落するという大惨事に至った。
ツインタワーは、特に北棟で人的被害が大きく、死者は約1,700人(救護活動中の消防士を含む)であった。特に突撃を受けた92階以上に被害が多く、この階以上の在館者全員が死亡したと言われている。それは航空機に突入されたフロアの階段が大きく破壊され炎上し、避難経路が遮断されたためである。南棟も同様に激しく炎上したが、こちらは旅客機が外側に少し反れて激突し、反対側の階段が損壊や延焼を免れたため、突入フロア以上でも延焼の少なかった部分にいた十数名は無事避難することができた。また、突入前の未然避難者も含めると約7割の人が生還している。ただしこの時、炎上部より上にいた人の一部が、煙による苦痛や絶望感から飛び降りを行い、消防士や避難者の一部が落下してきた人の巻き添えになり命を落とした。また崩壊時の破片や煙により、ビル外でも数人が命を落としている。一方、タワー崩壊後も館内で奇跡的に生き残っていた人も数名おり、それらの人々は当日夕方に救助された。
北棟および南棟の崩落による影響で、敷地内の他の4つのビルも崩落・炎上し、8時間後に敷地北隣の高層ビル・世界貿易センター7号棟もともに崩落。道路は完全に封鎖、世界貿易センターの地下をターミナルとしていた地下鉄やパストレインもトンネルの崩落で走行不能に陥った。これらのことからニューヨークでは合計で2749人が死亡するという大惨事になった。
この事件以降、世界貿易センタービル跡地はグラウンド・ゼロ(爆心地)とも呼ばれている。
アメリカ国防総省本庁舎(ペンタゴン)は9時38分にアメリカン航空77便(ボーイング757)の突入を受けた。大爆発が引き起こされてビルの一部は炎上し、10時10分に4階が崩壊、10時15分に1階までが全て崩壊した。77便の乗客・乗員全員が死亡するとともに189人の国防総省職員も死亡した。激突の瞬間の映像がペンタゴンの駐車場の監視カメラによって記録され、すぐにFBIによって回収、調査された。
事故現場はボーイング757の機体の判別が困難なほど焼けたが、ビルの倒壊は5層になっているビル全体の1番と2番で抑えられた。また、この部分は長官執務室の反対側であり、ビルの補強工事中で普段よりも職員が少ないことが被害を抑えた。世界貿易センタービルへの突入の影響で情報は錯綜し、最初の報道は単なる爆発炎上というだけであったが、後に付近を通行中のドライバーや歩行者によってアメリカン航空機が北側から旋回して激突したとの目撃が証言された。
テロ当日は北アメリカ航空宇宙防衛司令部(NORAD)の年に一度行われる訓練の日であり、東海岸から離れた場所で万全の防空体制で訓練に当たっているはずであった。しかし連邦航空局(FAA)からアメリカン航空11便ハイジャック発生の第一報が入ったのは8時40分(それ以前に入っていた説もある)ごろで、マサチューセッツ州の空軍基地からF-15戦闘機2機がスクランブル発進したのは8時52分であった。
F-15はアメリカン航空11便を追跡するよう命じられたが、発進した時11便はすでに突入した後であった。管制室は途中からユナイテッド航空175便を追跡させているつもりだったが、状況の把握ができておらず、パイロットも何を追跡しているか良くわからなかった。F-15は一度ロングアイランド湾で待機するよう命じられ、ニューヨーク上空への進入を命じられたのは175便が突入した後であった。しかしF-15には旅客機攻撃の権限が無く、突入を止めることは不可能であったと考えられる(進路妨害は可能であったという指摘もある)。
ワシントンDCには、ノースカロライナ州上空で訓練していたF-16戦闘機3機が呼ばれたが、飛来したところで基地で待機するよう命じられた。3機はアメリカン航空77便を追跡するよう命じられ再度発進したが、訓練のために燃料が不足し始め、さらに2機は訓練用の模擬弾しか装備していなかった。9時30分に別のF-16が3機発進し、ワシントン近くへ飛来したが、これには攻撃用のサイドワインダーが装備され、旅客機撃墜の権限が与えられていた。しかし、結局77便に合流することは無く、9時38分にペンタゴンを攻撃された。
オハイオ州上空を飛行していたユナイテッド航空93便の近くには、積荷の搬送を行っていたC-130輸送機が飛行していたが、管制官から93便を見つけて追跡するように命じられた。C-130は93便墜落の際、17マイル離れたところにおり、墜落の様子は見ていない。また、ワシントンから実弾を搭載した1機のF-16が93便の追跡に向かったという話もある。
NORADから10時6分にスクランブル発進命令があった2機のF-16が発進したのは10時16分であった。別の2機のF-16が93便を追跡していたという話もあるが、公式な記録ではない。さらに事故から約10分後に現場はるか上空を戦闘機らしい航空機1機が通過するのを目撃された。NORADはFAAから93便墜落の報告を受けたのは10時15分で、10分近くも93便の追跡を続けさせていた。
FAAがアメリカ中のすべての空港の閉鎖の措置を決定したのはツインタワーへの2度目の攻撃の直後からで、9時45分には全米の空港からの民間機の離陸が差し止められ、飛行中の民間機は直ちに最寄の空港へ着陸するよう通告された。
ジョージ・W・ブッシュ大統領はフロリダ州におり、小学校の授業を視察する予定であった。1機目のツインタワー攻撃の際には小学校へ向かう専用車の中にいたが、このときは事故だと考えていた。ただし、一時的にホワイトハウスとの間で電話会議が行われた。また補佐官ら周辺も同じように事故と考え、予定通り小学校へ入った。
授業視察中に2機目のツインタワー攻撃があり、補佐官から視察中のブッシュ大統領に「合衆国が攻撃されている」との報告を受けたが、ブッシュ大統領はすぐに動かずに7分間、小学生の朗読を聞いていた(この映像は後に『華氏911』などで取り上げられ、事態の深刻さを把握していなかった大統領の対応が批判された)。また、隣室に待機していたシークレットサービスらも動かなかった。朗読が終わるとブッシュ大統領は小学生を誉め、隣室で補佐官と話し、電話でライス補佐官と州知事に連絡した。その後、テレビカメラで国民へ呼びかけ、9時30分頃に小学校から出発し、3マイルのところにある空港へ向かった。エアフォース・ワンが離陸したのは9時55分である。このとき護衛の戦闘機は無かったが、このとき上空には、未だに連絡の取れない旅客機が11機あった。その後、空軍基地で事態の沈静化を待ち、夕刻にワシントンD.C.へ帰還した。
チェイニー副大統領と数人の閣僚、ライス国家安全保障担当補佐官はホワイトハウスで執務を行っていた。彼らはツインタワーへの2度目の攻撃の直後、シークレットサービスにつれられて地下壕へ避難した。なお、ホワイトハウスの屋上には防空用のスティンガーミサイルが備え付けられている。その後、閣僚らがヘリコプターで避難したのはユナイテッド航空93便が墜落した後だった。また、チェイニー副大統領は軍事補佐官に攻撃許可を求められ、ブッシュ大統領が不在の為、乗っ取られた飛行機の撃墜を許可した。しかし決定が出たのはユナイテッド航空93便が墜落した後だった。
ラムズフェルド国防長官は上級軍人と朝食をとった後、ペンタゴンの執務室へ入って議員と懇談していた。彼にツインタワー「攻撃」の知らせが入ったのは、ペンタゴン攻撃のわずか2分前であり、アメリカン航空77便がワシントンに向かっていることは知らなかった。また、平時のペンタゴンにはホワイトハウスのような防空装備が無い。攻撃の後、ラムズフェルド国防長官が建物の外へ出ると女性職員が血を流して倒れていた為、彼女を抱えて避難し、救急車が来るまで看病していた。現場から避難したのはその後で、数十分が経過していた。
パウエル国務長官は南アメリカのペルーを訪問中であったが、ツインタワーおよびペンタゴンへの攻撃の報告を聞いてすぐに帰国した。
ロシア連邦のプーチン大統領は、この一報に対し「アメリカ合衆国軍が必要な動員をかけたとしても、直ちにロシア連邦軍に迎撃体制を取らせることはない」とホットラインでブッシュ大統領に告げた。ロシア連邦軍にはソビエト連邦軍時代のオプションが継承されているため、通常、アメリカ軍が大規模な動員をかけるとそれに反応する様に指揮系統が準備されている(逆も同じ)。
この無差別テロ事件の犠牲者は、すべての死者を合計すると2973人とされている。内訳はハイジャックされた4機の旅客機の乗員・乗客が246人、アメリカ国防省で125人。世界貿易センタービルで2602人とされている(あくまで「確認された人数」ということであり、実際には多少の誤差があると言われている)。
このうち世界貿易センタービルではニューヨーク市消防局の消防士343人、ニューヨーク市警察の警察官23人、ニューヨーク港湾管理委員会の職員37人が含まれている。
このほかにも世界貿易センタービルではこの事件の被害者と思われる24人の行方不明者がいる。なお、ビルの残骸に含まれていたと考えられる約1100人の遺体は最後まで発見できなかった。遺体はもちろんあらゆるものが、粉々に破壊されて散乱した。近隣のビルの屋上で発見された遺体の破片もある。ハイジャックされた機体のひとつにはナショナル・ジオグラフィック誌の記者と写真家、彼らと同行していた子供たちが乗っていたとされている。
現場はビルの鉄骨に吹き付けられていた石綿やコンピュータや蛍光灯からの水銀等の危険な粉塵も含まれていて、救難活動を行った犬が次々に死に、肺に障害を訴える人が次々に出ているにも拘らず、アメリカ政府はそれを否定し、EPAは「空気は安全」と報知したことから、いち早くウォールストリートを開けるのを優先したのではないかという意見もある。
この事件がアメリカ国民に与えた衝撃は当然大きかった。冷戦終結後、世界で唯一の軍事超大国としての絶対的な存在感を有していたアメリカが、他国から攻撃を受けることについて、アメリカ国民は強い衝撃を受けた。またアメリカがこれほどの衝撃のある武力攻撃を受けたのは、真珠湾攻撃以来であることを強調する論評も見られた。世界一の超大国であるアメリカが、特定のテロリストグループないしはそれを支持する国からは、そこまでの嫌悪感を持って見られるということを、アメリカ国民は否応無く突きつけられ、余計に打ちひしがれることとなった。
その様な中、テロに対する報復は憎しみの連鎖を引き起こすだけだと、冷静さを取り戻し報復へ走らないようにすることを強調する人々もおり、アメリカ政府による報復攻撃を危惧する多くのミュージシャンは報復攻撃が行われていない時点で反戦のイベントを開催した。
このテロに対する国際的な反発は大きかった。国連は9月12日にテロ非難決議を採択。北大西洋条約機構 (NATO) とロシアは、「国際社会が結束してテロと戦うべき」という共同声明を発表した。また、欧米諸国だけではなく、日本やサウジアラビア、インドなどのアジア諸国もアメリカ合衆国を支持し、1980年代にパンアメリカン航空機に対するテロを支援した過去のあるリビアや、タリバーンの公然たる後援者であったパキスタン、在イランアメリカ大使館占拠事件以来アメリカとは犬猿の仲であるイランでさえ犯人グループを非難し、アメリカ合衆国に対する支援に同意した(但し、アメリカ合衆国はこの後、後述するようにアフガニスタン、イラクに侵攻するが、これが中東の反米感情を刺激したことを原因として2007年にはイランがイラク国内の過激派に武器を供与している疑いがあると報道された)。
2006年11月14日、ベネズエラの国会は、アメリカ大統領に呼びかける決議案を満場一致で採択した。メキシコ国境における壁の建設を激しく攻撃し、第4章で、「イスラム・テロとの戦争」の根拠となった2001年9月11日の事件について『ブッシュ政権が、ワールド・トレード・センターとその犠牲者に対する自爆テロに関し、またペンタゴンに激突したとされる航空機についての明確な釈明、およびビンラディンとブッシュ家との関係を提示するよう強く』要求している。
ブッシュ政権は、このテロ事件後のアメリカ合衆国世論の変化に合わせて、2002年に国際テロ組織とテロ支援国と断じた悪の枢軸(イラク、イラン、北朝鮮)との戦いを国家戦略とし、「アメリカの防衛のためには、予防的な措置と時には先制攻撃が必要」として推進する方針を決めた。これをもとに、アメリカ合衆国はイラクに対して大量破壊兵器を隠し持っているという疑惑を理由に、イラク戦争に踏み切った。
この行動に対しては、アフガニスタン(=ターリバーン政権)攻撃と異なり、国際的な態度は分かれ、イギリスや日本、フィリピンやスペイン、イタリアなどのアメリカ同調国と、フランスやドイツ、ロシア、中華人民共和国などのアメリカ非同調の立場に分かれた。
その後の2004年10月、アメリカ政府調査団は「開戦時にはイラク国内に大量破壊兵器は存在せず、具体的開発計画もなかった」と結論づけた最終報告書を米議会に提出。2006年9月には、アメリカ上院情報特別委員会が「旧フセイン政権とアルカイダの関係を裏付ける証拠はない」との報告書を公表しており、開戦の正当性が根底から揺らぐ結果となっている。
またブッシュ大統領は、イラク戦争後の2004年に中東首脳を招いて会談を開き、サウジアラビアやシリアの様に王制や独裁が色濃い中東各国がテロの温床になっているとして、これらの国々を民主化すると宣言し、中東各国は“それぞれの国情を無視しアメリカ式を押し付けるもの”と強く反発した。アメリカは中東民主化を今後の外交の方針に掲げるとしているが、この様な強権的なやり方には中東諸国のみならず、多くの国から批判が集中している。
さらに、「アメリカがアメリカであり続ける為に必要」として、「愛国者法(反テロ法)」を制定、2005年7月には暫定法であった同法を恒久化。市民のプライバシーを大幅に制限、公安活動の用に供するとして、また12月には、国家安全保障局の行なう不法な盗聴を大統領権限で事実上黙認していた事、2006年5月には、“テロリスト関係者、またはそれらと少しでも接触のあった外国人”をアメリカ入国の際に令状抜きで不法に連行・収監(=拉致)、自白を取る為の拷問がCIAとFBIによって行なわれていた事が明らかになるなど、全体主義化傾向が国内のリベラリスト・市民団体から批判されている。
9・11テロは、アメリカ政治および国際社会の大きな転換点となった。それまで「アメリカ国民の記憶に残る日」は1963年11月22日のジョン・F・ケネディ暗殺であったが、それはこの日をもって終わり、代わってアメリカ国民はこの2001年9月11日を永遠に記憶にとどめることになった。アメリカ国内の世論は急速に保守化し、ネオコン(新保守主義)勢力が政治の舞台に全面的に登場。その影響力を増大させたきっかけともなった。
その後、アメリカによるテロ支援国家への攻撃には国民の大半が賛同した。議会でも野党民主党が共和党のタカ派路線を容認する動きが目立った。事件直後、ブッシュ政権が9・11へのイラクの関与をほのめかし、過剰なマスコミ報道によりそれが増幅された為国民の間にイラクとサダム・フセインに対する敵愾心が増大し、2年後のイラク戦争の呼び水となったと言われる。その後、独立調査委員会の調査でイラクの関与がハッキリと否定され、ブッシュ大統領自身もそれを認めたにも関わらず、2005年3月の世論調査では、米国民の約60%が「イラクはアルカイダを支援していたと思う」と答えている。
一方、他の国ではアメリカの方針に対して世論が真っ二つに割れた。
親米的な意見(アメリカの主張)としては、これを基に世界中の独裁国家の民主化をすすめるべきだという意見などがある。特にブッシュ大統領が悪の枢軸としたイラク・イラン・北朝鮮などで非民主的体制が猛威を奮っているとされる状況で、これを解決するべきだとの声もある。その後のアメリカの対応を見ると、イラクやイランに対しては強硬姿勢に出るものの、北朝鮮やリビア、サウジアラビアに対しては様々な事情(アメリカの同盟国への軍事的影響力、石油利権など)から強硬姿勢を持たないなど、二重基準と批判する対応が目立つ。
反米リベラル的な意見としては、「自由の国アメリカ」のシステムを国外に普及させることを使命とするネオコン勢力の拡大は、政府の好戦的姿勢に反対する意見を言えない雰囲気を作り出しているとする声もあり、リバタリアニズムなど反ネオコン陣営からの反発も高まっている上に、アメリカ国内でさえ破綻しかけているアメリカ的価値観・システムの押し売りであると言う反発が多い。
またこの事件をきっかけに、アメリカは国連協調をなくして一国独走主義の時代になったり、冷戦時代の米ソ対立の構図の残滓も消え、世界の軸は突出した超大国一国によって動かされる(ジョン・ボルトンの国連軽視発言)時代になったとする意見もあり、これを「アメリカ帝国」と表現するアントニオ・ネグリ、マイケル・ハートのような思想家などもいる。
なお軍事的には、戦争をこれまでの国家レベルの紛争から、ある結びつきによる国なき民間軍事組織と国家との紛争という新たな形として、提示されたことに意義がある。
なお、事件後にアメリカを中心に行われたイラクへの侵攻に同調し派兵を行ったイギリスやスペインでは、この派兵に反対するイスラム過激派と見られる集団による一般市民を狙ったテロ事件が発生し、多くの人命が失われた。また、アメリカ主導で行われたイラク侵攻に同調し派兵することに対して、上記のようにこれらの国の内部で国民の意見が二分した。
その結果スペインでは、2004年3月のマドリードにおける列車爆破テロ事件後に行われた選挙で、アメリカへの支持と派兵を決定したホセ・マリア・アスナール首相率いる国民党が敗退し、ホセ・ルイス・ロドリゲス・サパテロ率いるスペイン社会労働党に政権が交代した。
同じくアメリカへの支持と派兵を打ち出して以降人気が急落していたイギリスのトニー・ブレア首相が任期途中で退陣することを発表するなど、アメリカへの支持と派兵はこれらの国における政権交代のきっかけを作ることとなった。
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