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当時のイギリスでは喫茶の風習が上流階級の間で広がり、茶、陶磁器、絹を大量に清から輸入していた。逆にイギリスから清へ輸出されるものはこれと言って無く、イギリスの大幅な輸入超過であった。イギリスはアメリカ独立戦争の戦費調達や産業革命による資本蓄積のため、銀の国外流出を抑制する政策をとった。そのためイギリスは清へ輸出出来る物品として、植民地のインドで栽培させたアヘンを仕入れ、これを清に密輸入する事で超過分を相殺し、三角貿易体制を整えることとなった。
これに対し清は、すでに1796年(嘉慶元年)にアヘンの輸入を禁止していたがアヘンの密輸入はやまず、清国内にアヘン吸引の悪弊が広まっていき、健康を害する者が多くなり、風紀も退廃していった。またアヘンの輸入量増加によりイギリスの入超だったのが清の入超になり、清国内の銀保有量が急速に減っていき銀の高騰をまねいた。当時の清は銀本位制であり、銀貨と銅銭が使用されていた。交換比率は相場と連動しており、銀貨1に対して銅銭1000文であったものが、銀の高騰により銀貨1に対して銅銭2000文という比率になった。銀本位制であるから税金は銀で換算されるため、農民が納める税金は二倍になった計算である。銀が不足し値が上がる事は物価が上がる事と同義であり、経済にも深刻な影響を及ぼした。
ここで官僚の許乃済から「弛禁論」が出た。アヘンを取り締まる事は無理だから輸入を認めて関税を徴収したほうが良い。と言う論である。この論はほとんどの人間から反対を受け一蹴された。その後、今度はアヘンを吸引した者は死刑に処すべきだと言う意見が出て、道光帝は林則徐を欽差大臣に任命し、アヘン密輸の取り締まりに当たらせた。
1839年(道光十九年)、林則徐はアヘン商人たちに「今後一切アヘンを持ち込まない」と言う誓約書を出す事を要求し、イギリス商人が持っていたアヘンを没収し、これをまとめて焼却処分した。この時のアヘンの総量は1400tを越えた。その後も誓約書を出さないアヘン商人たちを港から退去させた。イギリスの監察官のチャールス・エリオットはイギリス商船達を海上に留めて林則徐に抗議を行っていたが、林則徐は「誓約書を出せば貿易を許す」と返した。実際にアメリカ商人は誓約書をすぐに出してライバルがいなくなった事で巨利を得ていた。それを横目で見ていたトマス・カウツ号というイギリス商船が誓約書を出して商売を再開するようになった。これに続こうとした商船をエリオットは軍艦を出して引き止め、再度禁の解除を求める要望書を出したが、林則徐はこれをはねつけた。
==戦争勃発 11月3日、この返答を口実にイギリスは戦火を開き、清国船団を壊滅させた。「麻薬の密輸」という開戦理由にはイギリス本国の議会でも反対の声が強かったが、清に対する出兵は賛成271票、反対262票の僅差で承認され、イギリス東洋艦隊が清に向けて進発した。
艦隊は広州へは赴かず、いきなり天津沖に姿を現した。北京に近い天津に軍船が現れたことに驚いた北京政府は(政権内の権力闘争も兼ねて)林則徐を解任し、イギリスに対する政策を軟化させた。
1840年11月、イギリス艦隊は清政府に対して香港割譲などの要求を出す。北京はこれを拒否し、翌年1月7日、艦隊は攻撃。完全に制海権を握り、火力にも優るイギリス側が自由に上陸地点を選択できる状況下、戦争は複数の拠点を防御しなければならない清側正規軍に対する、一方的な各個撃破の様相を呈した。
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